聴覚障害を乗り越え、生涯の伴侶と巡り合って 2013.10.19 Mさん(40代・女性) Tweet この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第164号より転載し、編集を加えたものです。 音のない世界 1971年、私は大阪で生まれました。 未熟児だったため、病気がちで、間もなく肺炎にかかり、生死の境をさまよったそうです。 両親や医師の懸命な看護の結果、私は一命を取りとめました。 しかし、その治療に使用した薬の副作用で、私は耳が聞こえなくなりました。 医師からその事実を告げられた両親は、この子の耳が聞こえるようになるなら、全財産を差しだしても惜しくないと、できる限りのことをしてくれたそうですが、どんなに手を尽くしても、私の耳が聞こえるようになることはありませんでした。 「いつまでも、悩んだりくよくよしたりしても仕方ない。それだったら、早くこの子がちゃんと生活に困らんようにしてあげよう」 そう考えた母と、私の訓練が始まりました。 「あ・い・う・え・お」 聾学校(ろうがっこう)の幼稚部で、読話術(どくわじゅつ)と手合図(てあいず)を学びました。 生まれたときから、音を聞いたことがない私にとって、言葉を覚えることは大変な努力が必要でした。 家では母が、口を大きくあけて、何度も何度も単語を繰り返します。 音の聞こえない私には、口をパクパクしていることしか分かりません。 一つの単語を覚えるだけでも、何百回と母は口を大きくあけて、私に言葉を教えてくれました。 来る日も来る日も「あいうえお」の練習です。 駅前で商店を営む両親は、忙しい合間を縫うように、毎日毎日私に言葉を教えてくれました。 なかなか思うように進まないと、泣いたり、ぐずったりする私に、それでも母は根気強く言葉を教え続けてくれました。 幼稚園は聾学校の幼稚部に通いましたが、両親が「普通の子と一緒に育てたい」と願って、小学校からは普通学級で学ぶことになりました。 「あなたは耳が聞こえない」と言われても、それが私の世界です。 他の人とのかかわりのなかで、初めて私は自分が「耳が聞こえないとはどういうことか」を理解していったように思います。 絶対、負けるもんか! 聾学校では、先生は聴覚障害者が、聞きとりやすいようにと、常に正面から口を大きくあけて話しかけてくれます。 しかし、普通の学校では違います。 先生は黒板に文字を書きながら、また、歩きながら話すこともあります。 私は、話している口の動きを見て、内容を理解するため、いつも先生の口元をじっと見つめていました。 しかし、耳が聞こえず、うまくコミュニケーションがとれない私は、いじめられることがよくありました。 心ない同級生の言葉や態度が、私の胸に突き刺さります。 それでも、「ここで逃げたら、私の負けだ。私は、絶対負けない。負けたくない」と、どんなことがあっても、学校に通い続けました。 そんな私のことを両親はいつも、温かく、ときには厳しく見守っていてくれました。 両親の愛情が支えとなり、学校生活を続けることができました。 運命のいたずら? 「お母さん、どうして私の耳、聞こえなくなったの?」 「それはね、運命のいたずらなんだよ」 母はそう答えました。 しかし、私には納得できません。 なぜ、私は他の人と違うんだろうと、ずっと疑問に思っていました。 中学への進学を控えたある日、たまたま見た自分の戸籍にびっくりしました。 そこには、「J子」の文字が書かれていました。 母に、おそるおそる訊ねました。 「お母さん、私の名前、C子じゃないの?」 「あなたの耳が聞こえなくなったとき、お医者さんに言われて、呼び名をC子にしたんよ。呼びやすい名前にしたほうがいいって」 生まれたときから「C子」と呼ばれていた私。 驚きました。 自分の名前が本当の名前じゃないなんて。 「それじゃあ、なんでそのままで通してくれなかったの……」 母から言われた「運命のいたずら」という言葉が、頭のなかを何度もよぎり、いままで以上に不条理に思え、全身の力が抜けていくようでした。 ハンカチ 中学に入学してからも、相変わらず私はいじめられていました。 小学校時代より、いじめの内容は次第にエスカレートしていきます。 ある夏のこと。 その日は水泳の授業があり、私はプールに入っていました。 休憩時間となり、先生が目を離したすきに、私の周りをクラスメートがぐるっと取り囲みました。 私は怖くなり、なんとかその輪から抜け出そうとします。 しかし、頭を押えられたり、足を引っ掛けられたりと、なかなかその輪から出してもらえません。 苦しくて、声が出てきません。 幸い私は泳ぐことができたので、なんとか溺れずにすみましたが、一歩間違えば……と恐怖が私を襲ってきました。 「そんなにつらい目に遭ってるのに、無理して学校に行かなくてもいいんだよ」 母は、私にそんな言葉をかけてくれました。 「お母さん、私頑張って学校行くから、たくさんハンカチ用意して。学校でいっぱい泣いてもいいように、ハンカチだけは、たくさん用意しておいて」 私は、学校でよく泣いていました。 ハンカチがぐしょぐしょになって、一枚では足りません。 そんなとき、新しいハンカチは、私の涙と一緒に、悲しみや苦しみをやさしく吸いこんでくれていたのです。 「どうして、私だけこんな目に遭うんだろう。私の耳が聞こえないから、みんなと違うから、いじめられるのかな」 自分の置かれた環境への不平や不満が心のなかにぐるぐると渦巻いてきます。 そして、なぜ自分は生まれてきたのか? 人間はどこから生まれてくるのか? など、私は、ますます、自分の障害や、人生について深く考えるようになっていきました。 新しい道 高校に入学してからは、勉強も難しくなっていきました。 友達もなかなかできず、一人で悩むことも多かった気がします。 そんな、高校2年生の終わりごろ、思い切って聾学校の高等部を訪ねました。 そこで、ずっと抱えてきた胸の内を思い切ってぶつけてみました。 「私は、勉強も分からないし、普通の学校より、聾学校へ行けばよかったんでしょうか?」 「そんなことない。せっかくここまでこれたんだから、あと1年頑張りなさい。高校を卒業したら、うちの学校には専攻科があるから、そこでまた新たに学べばいいよ」 「はい、分かりました! もう1年頑張って、専攻科に行きます」 新しい道が目の前に開けました。 その日は、お礼を言って帰りました。 それからの1年間は、少しずつですが、いろいろなことを話せる友人もでき、楽しい学校生活を送ることができるようになりました。 高校時代は、成績は伸び悩んだ点もありましたが、私の頑張っている姿を先生も評価して下さり、卒業式には卒業証書を受け取るクラス代表に選ばれました。 手話が使えない 卒業後は、聾学校の専攻科に進学しました。 聾学校では、耳が聞こえないもの同士。 いままでとはまるで環境が違います。 今度は、仲良くなれるだろうかと、私はドキドキしていました。 しかし、同じ聴覚障害を持っていても、その度合いはさまざまです。 私は、小さいころから手話はあまり使わずに、手合図と読話でコミュニケーションをとっていました。 ところが専攻科では、手話でのコミュニケーションが主だったため、今度は手話を使えないということがいじめの対象になってしまいました。 手話サークルへ入れば、いじめがなくなるのだろうかとも考えましたが、気が進まず、結局サークルには入りませんでした。 同じ障害を持つ人からのいじめは、私の心をひどく落ち込ませました。 「もう、辞めようかな」――何度もそんな気持ちが浮かんできます。 それでも、いままでも頑張ってきたのだからと、学校に通い続け、やがて、専攻科を卒業。 私は、大阪の会社に就職しました。 中学のころから自分の人生についていろいろと悩み続けてきましたが、会社に入社してからは一層悩みも深く複雑なものへと変化していきました。 幸福の科学との出会い 私が就職した会社には、聾唖者(ろうあしゃ)の先輩がいました。 なぜか彼女には、事あるごとに厳しいことばかり言われてしまいます。 さすがの私も、これにはまいってしまい、「もう、いや! なんでこんな目に遭わないといけないの? 私は、一体なんのために生まれてきたの……」と、思い悩んでいました。 その頃から、いままで抱えてきた悩みを解決しようと本屋をめぐっては、いろいろな本を買って読む日々が続きました。 何冊も何冊も読みましたが、なかなか答えは見つかりませんでした。 1999年2月、いつものように本屋に行きました。 普段は足を運ばないような宗教書のコーナーになぜか私は立っていました。 そこには、「幸福の科学コーナー」があり、たくさんの書籍が棚に並んでいました。 私は、『太陽の法』を手に取り、パラパラとページをめくってみました。 いきなり本を買うのはどうかと思い、棚に本を戻しかけたところ、『マンガ 太陽の法』を見つけ、それをまず1冊買ってみることにしました。 自宅に帰って読み進めると、私はいつのまにか夢中になっていました。 続きもすぐに購入し、ハードカバーの『太陽の法』『幸福の法』と、続けざまに読みました。 「すごい! ここには私の知りたかったことが書いてある。もっと、幸福の科学のことを知りたい!」 そう思って、幸福の科学の支部を訪ねました。 最初は、緊張しましたが、スタッフの方がやさしく迎えてくれました。 私の質問や疑問に、筆記で丁寧に話してくれました。 その日は、スタッフの方とお話をして帰りました。 帰ってからも、幸福の科学の教えをもっと知りたい、学んでみたいという気持ちがますます強くなってきます。 ついに私は、1999年5月、幸福の科学の会員となりました。 さらに何冊もの本を読み、支部の方と一緒に活動したり、学んだりするうちに、「人は生まれる前に、人生計画を立ててくる」ということが分かりました。 「私は、耳が聞こえない人生をあえて選んで生まれてきたんだ!」 「私の悩み、これで解決できる! 幸福の科学の教えに触れて、本当によかった」 いままで、ずっと解けずにいた疑問の答えが、ついに見つかったのです。 私の心は、喜びに満たされていました。 感謝を深めたら ある日、会社から帰る電車に乗りながら、『幸福への道標』を読んでいました。 そこに書かれていた文章に、私は、はっとしました。 「他の人から厳しい言葉を受けて傷つき、それで悩んだとして、それを十年も苦しむのは、だれの責任でしょうか。その言葉を投げかけた人ですか。それとも自分ですか。どうでしょうか。原因は他人にあったかもしれませんが、悩みをそこまで実在化させたのは自分であるはずです。忘れようと思えば忘れることはできたはずなのです」 涙がこぼれました。 私は、これまでの先輩の姿と、自分の言動を振り返り、反省を深めました。 「先輩は、自分がいつ辞めるか分からないから、いまのうちに、後輩にいろいろなことを教えなければと思って、厳しいことを私に言ってくれていたんだ」 先輩の気持ちが伝わってきて、私の心は感謝の気持ちでいっぱいになりました。 次の日、私は自分から先輩に話しかけてみました。 すると、びっくりするほどやさしい言葉でいろいろと話してくれたのです。 私はうれしくて、先輩の話を「うん、うん」とうなずきながら聞き、感謝を持って接するようになりました。 それから先輩とはいい関係を築くことができたのです。 間もなく、先輩は会社を退社していかれました。 「徳島、35歳」 私も30歳を過ぎ、両親からも、「結婚するように」と言われるようになりました。 よかれと思って、母は、私と同じく耳に障害がある人を紹介してくれたことがありましたが、私は「結婚するなら、幸福の科学の信者で、一緒に活動できる男性がいいな」――漠然とそんなふうに考えていました。 そこで支部のスタッフに相談すると、「幸福結婚相談所」を紹介してくれました。 2008年2月、相談所の交流会の前日に開かれた、総本山・正心館での研修に参加したときのことです。 研修を受けている間、私の隣に座っていた男性のことが強く印象に残りました。 翌日、交流会に参加すると、そこでも昨日の男性と話す機会がありました。 彼は、私の耳が聞こえないことを知って、一瞬、驚いたようでしたが、その後も一生懸命、会話をしようと努力する彼の誠実な姿に、私は好感を持ちました。 しかし、初めての交流会だったため、多くの方と次々と会ううちに、彼の名前や連絡先などを聞くことを忘れてしまっていました。 自宅に帰ってからも、「徳島、35歳」と記憶していた彼のことが、気になっていました。 6月には、私の住む大阪で交流会があるというので参加しました。 「また、会いましたね」と、声をかけられました。 「あっ! 徳島、35歳! 研修で、隣に座ってた人だ!」――その顔を見た瞬間、一気に記憶がよみがえってきました。 それから私たちは筆談で話をしましたが、交流会の時間だけでは全然足りません。 彼が「M」とノートに書いてくれた名前を、今回はしっかりひかえ、相談所の方に、彼とまた会いたいことを伝えて帰宅しました。 彼との会話 7月7日、七夕の夜。 Mさんからメールがありました。 「こんばんは。今日は、7月7日、七夕ですね。こんな日に、メールを始めるなんて、なんだか光栄です……」 彼とのメールは、そんなふうに始まりました。 それから毎日、私たちはメールでのやりとりを続け、週末には大阪正心館で会う約束をしました。 彼との会話は、筆談が中心でした。 お互いの考えていることや、これまでの人生について、私たちは何時間も、尽きることなく筆談でやりとりを続けました。 彼は、熱心に私の声に耳を傾け、また、私が理解できるように一生懸命声をかけ続けてくれました。 私は、そんな彼の誠実さや、やさしさに惹かれていき、この人となら、一生一緒にやっていけるかもしれない、と思いました。 彼は、徳島から大阪へ月に数回、専門学校の授業に参加するために、通って来ていたのです。 彼の授業が始まるまでの間、私たちはデートを重ねました。 おつきあいが始まってしばらくしたころ、筆談だけではなく、彼は私がコミュニケーションで使っている手合図を覚えたいと言ってくれました。 彼は、毎日のように、繰り返し練習を重ねてくれたそうです。 そしてある日のこと。 彼は真剣な顔で、「今日は、筆談はせずに、この手合図だけで会話しよう」と、私に言いました。 その日は一日中、手合図と私の読話だけで会話をしました。 始めは、間違うことが多かった彼も、次第に手合図をマスターしていきました。 何度も、何度も根気よく、彼は私と会話をするために、努力してくれました。 プロポーズ、そして結婚 忘れもしない2008年、11月24日。 いつものように大阪でデートした別れ際、大切な話があるからと、Mさんが言いました。 「僕は、あなたのことが大好きです。僕と結婚してください。必ずしあわせにします。僕を信じてついてきてくれますね」 手合図を使って一言一言区切りながら、一生懸命に語る彼。 「はい、ついていきます」 私も彼を見つめて、一言一言はっきりと答えました。 その夜、自宅に帰った私の携帯に、Mさんからメールが届きました。 「大切なことだから、ちゃんと伝えたい」と、メールでもう一度プロポーズしてくれたのです。 「私のすべてを受け止めてくれたMさんと、一生、一緒に生きていこう」と、心に誓いました。 二人が再会した日から1年後の、2009年6月21日。 私たちは思い出のたくさん詰まった大阪正心館で結婚式を挙げました。 いま私は大川隆法総裁の生誕地、徳島県で生活し、幸福の科学の活動に参加しています。 私の耳は聞こえないけれど、だからと言って不幸ではありません。 幸福の科学の教えに出会い、自分の「生きる意味」を知り、Mさんという素晴らしい魂のパートナーにめぐりあうこともできました。 これからも、「使命を果たしました」と言える自分自身を目指して、頑張りたいと思います。 この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第164号より転載し、編集を加えたものです。 (原題:「音のない世界でつかんだ本当の幸せ」) 夫婦・結婚,幸福結婚相談所,病気・事故,隔月「ザ・伝道」 関連リンク 『太陽の法』 『幸福の法』 『幸福への道標』 同じテーマの記事 「いい人なら、入信できる」――“夫の宗教”に入信した私が思ったこと 2016.10.06 Oさん(40代・女性・東京都) 信仰を持って、自分が自由になった 結婚から10年、私は、夫が学生時代から信仰している宗教「幸福の科学」から距離を取り続けていました。主人が信仰するぶんにはよくても、自分が宗教に所属することは考えられなかったのです。しかし… 続きを読む 同じテーマの記事 原因は家庭不和だった。度重なる子供のトラブルが解決 2016.03.22 Kが起こしたトラブル 私にはM(小6)とK(小4)の2人の子どもがいます。 Kが1年生の2学期のことです。ある日、何だか落ち込んだような顔をして、学校から帰ってきました。 その時、電話が鳴りました。 「今日、Kくんがお友… 続きを読む 同じテーマの記事 舌ガンになった夫――ガンの原因は食べ物だと思っていたのに 2015.07.25 Mさん(50代・女性) この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第126号より転載し、編集を加えたものです。 夫が舌ガンに 「舌ガンだそうだ……すぐ手術しなければいけないらしい」 「口内炎じゃなかったの!?」 病院から帰宅した夫の報告に、私は呆然… 続きを読む 同じテーマの記事 結婚なんて、と思っていた私が幸せな家庭を手に入れた 2015.07.11 Yさん(40代・女性) この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第130号より転載し、編集を加えたものです。 結婚に消極的だった私 わが家は、夫と小学生の娘2人、私の4人家族。いつも子供たちの元気な声が響いています。 独身時代の私は、結婚に消極的… 続きを読む 同じテーマの記事 DV夫から逃げ出した子持ちの私が再婚して幸せになるまで 2015.07.04 Mさん(30代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第255号より転載し、編集を加えたものです。 準備もないまま結婚・妊娠 私は、23歳のときに会社で知り合った男性と、両親の反対を押し切って結婚しました。 そして妊娠を理由に、ほ… 続きを読む 同じテーマの記事 熟年離婚の危機を乗り越えて――信仰の道を歩んで夫婦円満に 2015.04.24 Cさん(60代・男性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第244号より転載し、編集を加えたものです。 「別れてしまえばすべて解決するのではないか」 私が教師として勤めていた職業訓練校を定年退職したころから、妻の態度がよそよそしくなっ… 続きを読む 同じテーマの記事 病弱な夫を責めている自分に気づけた精舎修行 2015.03.06 Rさん(60代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第246号より転載し、編集を加えたものです。 ボランティアは元気の源 私は、正心館で料理や作務のお手伝いをしています。不思議なんですが、ボランティアをすると心も体も軽くなって、… 続きを読む 同じテーマの記事 結婚で心のステージ・アップ 2014.09.12 Fさん(30代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第248号より転載し、編集を加えたものです。 カラ回りする気持ち 私は20代のころから「将来は結婚して、幸せな家庭を作りたいな」と思っていました。でも、理想とは裏腹に、結婚生活… 続きを読む 同じテーマの記事 亡き妻が教えてくれた「あの世は絶対にあるよ」 2014.07.05 Kさん(40代・男性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第230号より転載し、編集を加えたものです。 40歳の若さで亡くなった妻 数年前、5人の子供と私を残して、妻のHが40歳の若さで、がんで亡くなりました。もし信仰がなかったら、私… 続きを読む 同じテーマの記事 暴れ狂うDV夫が信仰で変わった! 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