アル中の父親を許し介護した15年間 2013.10.19 Iさん(40代・女性) Tweet この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第187号より転載し、編集を加えたものです。 アル中の父から虐待されて 「何べん言うたら、分かるんや!」 父はそう怒鳴ると、まだ小学生だった私の髪の毛をつかんで引きずり、さらに、背中を拳でなぐりつけました。 父が決めた門限は5時。 少しでも遅れると、父はこうして私を厳しく折檻しました。 母は、私が4歳のころに亡くなり、兄と私は四国の祖母のところに預けられました。 しかし、祖母とそりが合わなかった私は、小学校5年生のときに、大阪の父のもとで暮らすようになったのです。 自ら望んだ父との生活。 けれども、大阪に行って私が見たものは、酒に溺れる変わり果てた父の姿でした。 父は、お酒を飲んでは、毎晩のように私に暴力をふるいました。 抵抗できない私は、アルコール臭漂う狭くて暗い長屋の一室で、まるで人形のように、ただ、ただ、父の暴力がおさまるのを、待つことしかできませんでした。 学校に通う以外は、どこにも行くことを許されなかった私は、中学生になると、父への逆襲を始めます。 夜は暴走族仲間と遊びまわり、クラスメイトの家に何日も泊めてもらったこともありました。 ある日、酔って私を連れ戻しに来た父に、私は初めてやり返します。 私を殴ろうとした父の手を振り払い、足を蹴り飛ばすと、父は、あっけなくも尻もちをつきました。 このとき私は、心のなかで無様な父を嘲笑い、父の束縛の鎖を断ち切れた喜びに、戦慄さえ覚えていたのです。 父は、酒のせいで職を転々とし、収入は不安定。 私は、せっかく通い始めた専門学校も中退を余儀なくされて、ホステスをしてお金を稼ぐようになりました。 「体がきつい。働きたくない……」と、ゴネる父に、私は冷たく言い放ちます。 「働かないで食ってけるほど、世の中、甘くはないねん!」 介護の始まり 1996年、私が24歳のときに、事件は起こります。 泥酔した父が、仕事帰りに自転車ごと溝に落ち、頸椎を損傷して、言語障害と歩行障害に陥ったのです。 奇跡的に、狭い長屋のなかを這って動けるまでには回復しましたが、父は職を失い、介護が必要となったのです。 結婚して名古屋に暮らす兄には、経済的援助はともかくとして、日々の介護までは頼れません。 父の家の近くに住む私が、面倒を見る以外に選択肢はありませんでした。 「いったいどこまで、あたしを苦しめたら、気がすむんや!」 私は、憤りと失望とで、奈落の底に突き落とされたような絶望感に襲われました。 しかし、さすがに何もできない父を放っておくことはできません。やむなく私は、父の長屋に毎日通い、掃除、洗濯、食事づくりなどを、たった一人でこなしていったのです。 「お父さん、ちゃんと毎日、歯磨きしてな」 「口うるさいな! もう、来んでええ! お父ちゃん、自分のことは自分でできるわ!」 父は、些細なことですぐに激怒します。 幼いころからの恨みつらみもあって、私は父の介護が嫌で嫌でたまりませんでした。 「もう、限界や……。早くこの苦しみから解放されたい!」 何度、そう思ったことでしょう。 唯一の救いは、幸福の科学の信者のみなさんの励ましでした。 20歳のときにアルバイトを始めた居酒屋の店長Aさんの勧めで、私は幸福の科学の信者になっていたのです。 あれはAさんに連れられて、初めて支部に行ったときのこと。 面談していた支部長の胸のペンダントから、泡のような光が生まれているのが見えました。 「あ、これ? 『正心宝(しょうしんほう)』いうねん。さわってみる?」 勧められるままにさわると、ビビビビーっと衝撃が走り、一瞬、意識が飛びました。 子供のころから、酒を飲んだ父の背後に黒い影が見えるなど、不思議な体験を数多くしていた私でしたが、幸福の科学の本には、その意味がはっきりと書かれていました。 そして、書籍を読み進めるほどに、教えの素晴らしさを確信して、私は入信を決めたのです。 Aさん夫妻は、私を家族同然にかわいがってくれ、いつも人生相談にのってくれました。 父のことも、「苦難・困難は、魂を磨いてくれる砥石なんや。だから頑張りや」と、勇気づけてくれました。 また、大阪正心館のある講師は、「介護は、一生涯は続かない。修行がすんだら、ある日突然、『はい、おしまい』ってなるんや」、そう教えてくれました。 私は、「とりあえず、今日一日を生き抜こう。そしたら、また明日一日、頑張ってみよう」と、自分を励ましていきました。 募る憎しみ 介護を始めて3年ほどがたった1999年。 私は、居酒屋のかつてのアルバイト仲間Iさんと、結婚することになりました。 彼もまた、Aさんの導きで、幸福の科学の信者となっていました。 けれど、彼との新しい生活に胸躍らせながらも、私の心は晴れません。 あのうす暗い長屋に独りで暮らす父を、彼の両親に紹介するという関門を通過しなくてはならなかったからです。 私は精一杯見栄を張って、高級料亭に場を設けました。 そして、車椅子に乗せて父を連れていき、彼の両親に紹介しました。 父は事故以来、アルコールは一滴も飲んではいませんでしたが、「小脳変性症」という脳が委縮していく病に侵され、肢体の麻痺や震えは一生治らないと言われていました。 震える手で懐石料理をこぼし、ろれつの回らない舌で、「酒の飲み過ぎでこんな体になってしまって……」などと饒舌に話す父。 ずっとアル中の父を恥ずかしいと思い続けてきましたが、私はこのときほど父を憎いと思ったことはありませんでした。 あんたなんか、死ねばいいんや! 結婚後も、父の介護は続きます。 2003年に最初の子供をみごもってからも、私は重い体を引きずって、父の長屋へと通いました。 父は、食べ物をこぼしては服につけ、そのまま家中を這って移動するので、床は汚れて異臭を放ち、入浴を嫌がる父の体からは悪臭が……。 つわりに苦しむ私には、まさに地獄の責め苦そのものでした。 ようやく妊娠6カ月のころ、兄のはからいで、ヘルパーさんが来てくれることになりました。 「もっと早く手続きしてたら……。この世の知恵も大切やなぁ……」 週に何度か来てくれるヘルパーさんは、掃除や買い物まで請け負ってくれ、当時の私には、まるで天使のように見えました。 ところが―――。 「お父さんが、鍵をかけて入れてくれないんです! すぐに来てください!」 買い物に行っている間に父に閉め出され、困り果てたヘルパーさんからの電話です。 もともと人嫌いで対人関係が苦手な父。 とくにここ数年は、私以外と接することもなかった父にとって、赤の他人が家に入ること自体、かなりのストレスだったにちがいありません。 「誰がヘルパーを雇えって言うた! おまえ、お父さんの面倒みるの嫌やからヘルパーなんか雇ったんやろ! ヘルパーなんかいらん! ほっといてくれ! もうお父さん、 死にたいんや! 殺してくれ!」 その日は、いつになく疲れていた私。 父の暴言に、突然、心のなかで何かが切れました。 そして、次の瞬間、私は、台所から包丁を持ち出して、父に突きつけて、言ったのです。 「あんたなんか……。あんたなんか、死ねばいいんや! 私は犯罪者になるのは嫌や。 だから、今すぐこれで、自分の喉を切れっ!」 いつもと様子の違う私に、さすがの父も、たじろんでいます。 私は、涙と震えが止まらず、腹の底から真っ黒な怒りがワーッとこみあげてくるのを抑えることができません。 「憎い! この人が憎い!」 介護で追いつめられ、身内を殺してしまう人の気持ちが、このとき、はっきりと分かりました。 「お前はよく頑張った。こいつがいる限り、お前は決して幸せにはなれない。そうだ、ひと思いに殺してしまえ!」 そうささやく声が、耳元で聞こえます。 その後、なんとか正気に戻り、私はフラフラと家に帰って、ベッドに倒れ込みました。 帰宅した主人が異常を察して、何も言わずに夕食をつくってくれました。 けれど、愛情いっぱいの家庭に育ち、両親は大切にするものだと自然に思える主人には、すべてを話すことはためらわれました。 数日後、私は、以前から評判を聞いていた「両親に対する反省と感謝の研修」を受けるために、琵琶湖正心館へと向かったのです。 介護は、愛を学ぶ修行 「思い出しては父の恩 山より高くそそり立つ 思い出しては母の恩 海より深く包み込む」 私は、研修のなかで講師があげる「大悲(だいひ)・父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)」に、耳を傾けていました。 けれど、礼拝堂で瞑想をしても、父への憎しみは募るばかりです。 そればかりか、父のことを考えると、頭が割れるように痛み、吐き気さえもよおします。 私は、心晴れないまま、帰宅することになりました。 そして、事件から2週間。 私は父の家には1度も行かずに、ずっと部屋にこもりっきりになっていました。 すると、1本の電話が―――。 支部で、いつも相談に乗ってくれるMさんからでした。 「最近、支部で見ないから、どうしてるかと思ってね。もうすぐ、生まれるんやろ? 」 Mさんの穏やかな声を聞くやいなや、私は、せきを切ったように泣き出しました。 「何か胸さわぎがしたんや! 今すぐ迎えに行くから、待ってるんよ!」 私は、Mさんの家で、苦しい胸の内をすべて吐き出しました。 ご自身も母親の介護と看取りを経験していたMさんは、私の話に黙って耳を傾けてくれ、優しく私の肩を抱いて言いました。 「お父さんに感謝できないんやったら、 無理に感謝しなくてもいいんやない? 私も、母が生きている間は、なかなか感謝できなかった。それこそ『殺せ~!』とかもあったわ」 Mさんの言葉に、張り詰めていた心が、フッと楽になり、光が差し込んできました。 「あなたの小さい頃の話を聞いて、とても気の毒だとは思う。でもね、きっとあなたは天上界で約束して、今のお父さんを選んで生まれてきたと思うの。お互いの魂を磨き合うためにね。喧嘩しながらゴリゴリ磨き合う親子だっていいじゃない。それでも親子は親子。それに介護ってね、愛を学ぶための修行なの」 それまで私は、「きっと私は、過去世で父に悪いことをしたから、今世、父に酷い目にあわされているんだ」と、思っていました。 けれども、このときから私は、「介護も尊い修行」と覚悟を決め、前向きに、介護と向き合っていこうと思えるようになったのです。 初めて過ごす穏やかな時間 その翌日、私は久しぶりに父のところに行きました。 父は、電気もつけず、真っ暗な部屋で、テレビを見ていました。 私はテレビを消すと、言いました。 「どんなん喧嘩しても、親子は親子や。あんたを最後まで看るのは……あたしやで!」 「お、お父さんには、おまえしか頼れるもんは……おらんのや……」 父が言い終える前に、私は黙って立ち上がり、いつものように食事をつくり始めました。 再びテレビを見始める父。 その頬に、光るものが流れるのを、私は見逃しませんでした。 その晩、主人にその話をしました。 「それは良かったなぁ。でも、前から思ってたんやけど、おまえ、お父ちゃんに対して、言葉きついよな。俺、聞いてて、痛かったもん」 「……え? そうなん?」 「感情を、そのままぶつけるんじゃなしに、普通でええやん。俺や、友達にしゃべるみたいに」 私は、ハッとしました。 父も私も、互いにいつも喧嘩ごしで、顔を合わせば言い争いになり、それが当たり前になっていたのです。 翌日、父の家に行くと、私は玄関の前で、幸福の科学のお祈りのひとつである「守護・指導霊への祈り」をあげて、「どうか今日はきつい言葉が出ませんように……」と、お祈りをしてから家のなかに入りました。 「なぁ、お父さん。今日は天気いいし、お風呂入ってみる? わかしたろか?」 「……。そやな。わかしてくれ」 いつもお風呂を嫌がる父。 今までなら、ここで言い争うか、お互いにだんまりを決め込むかの、どちらかでしたが、この日は、父とは一度も喧嘩することなく、初めて、穏やかな時間を過ごすことができたのです。 思い出した、父の恩 2004四年の春、長男が生まれました。 すくすくと成長する長男の存在は、父と私の距離をさらに縮めてくれました。 長男は、父のことが大好きで、いつも、「ママ、じぃじんとこ、行こ」とせがみます。 その日も彼に促され、父のところへ行くと、父は嬉しそうに、その姿を目で追っていました。 仲良く並んでご飯を食べる2人。 ふと、私は、父に訊いてみたくなりました。 「ねえ、小さいときのあたしって、あっくん(長男)みたいやった?」 「ケッ! お前はそんなに賢い子やなかった。言うこと聞かんかったし」 「……もう、ええわ! あっくん、帰ろ!」 私は少しムッとして、帰り仕度を始めました。すると父が、ポツリと言いました。 「お前はよく泣いた……。あんまり泣くから、お前を抱いて、お母さんとお父さんは、よく夜中の散歩に行ったもんや。お母さんはほんとうに素晴らしい人やった……」 私はとても驚きました。 父はそれまで一度も、死んだ母のことを話してくれたことはなかったからです。 母のことを、とてもとても愛していた父。 最愛の母を失い、子供たちも手放して、寂しさのあまりお酒を飲むようになった父……。 私は、複雑な気持ちになっていました。 父の家をあとにして、支部へと向かう車中。 長男は助手席で、寝息を立てて寝ています。 突然、「大悲・父母恩重経」の経文が、私の心に響いてきました。 「思い出しては 父の恩……」 そして次の瞬間、まぶたの裏に、ある光景が浮かんできました。 そう、それは四国の祖母の家の前の、海沿いの国道にあるバス停でした。 夕暮れ時。 太平洋に沈んでいく真っ赤な夕日が、私と、私の横に座る兄の顔を照らしています。 幼い私たちは、何かを心待ちにしています。 やがて一台のバスがやってきました。 バスから降りてきたのは……。 バスから降りてきたのは、満面の笑顔で、両手いっぱいにお土産を持った、若き日の父でした。 兄と私は、父に駆け寄り、飛びつきます。 父は私を抱き上げ、肩に乗せました。 懐かしい父のぬくもり……。 「お父さん!」 熱い涙が、あとからあとから溢れました。 長男を起こさぬよう、私は声を殺して、いつまでも、泣き続けました。 「そうだ、そうだった……。あの頃の私は……。あの頃の私は、お父さんが大好きだった!!」 この日を境に、私は父に対して、いっさい怒りを覚えることがなくなったのです。 ある決意 2007年、夏。 父は、血尿を出して、入院しました。 病名ははっきりしませんでしたが、カテーテルを挿入され、尿袋をつけられた父は、医師や看護師にも、「さわるな! ボケ!」などと暴言を吐いて大暴れしました。 そのたびに、私が呼び出されます。 甘いもの好きの父のために、おはぎを差し入れすると、父は、ただ、ガツガツと食べ尽くします。 食べて寝て、排泄するだけの父。 「それでも、お前は、父を愛せるか?」――毎日、そう問われているようでした。 けれど、私は、どんな姿の父を見ても、もはや腹を立てることはなくなり、ごく自然に父に優しくしてあげようと思えるのでした。 人を許すということは、こんなにも幸福なものなのだということが、しみじみとわかりました。 そして、私は、あることを決意しました。 それまで私は、こんなにも娘を苦しめた父は、死後、地獄に堕ちて反省し、犯した罪を自ら償うべきだと、ずっと思っていました。 けれども、その考えは変わりました。 「私は……。地獄で苦しむ父ではなく、素晴らしい父の姿が見たい! あの世の天国で、母と再会し、二人で幸福に暮らしてほしい!」 私は、父に幸福の科学に入会をしてもらおうと、心に決めたのです。 「もういっぺん、言うてくれ!」 しかし、父が入院する病院から支部までは、車で40分以上。 カテーテルをつけ、歩くこともできない父を連れて行くのは困難でした。 私は、支部で祈願を受けました。 「父のことはすべて主エル・カンターレに委ねます。けれど、主よ……。父のように苦しむすべての人を、どうか、どうか、お救いください……」 きれいごとでも、かっこつけでもなく、私は、初めて心からそう願って、祈願を受けました。 すると、祈願式典終了後、病院から電話があり、父を詳しく検査するために、明日、別の病院に転院させると言うのです。 驚きでした。 しかも、その病院は、なんと、支部から徒歩10分のところの病院でした。 意外にも父は、支部へ行くことを、あっさりと承諾してくれました。 「はじめまして。私はここの支部の支部長をしているものです」 「はぁ……。いつも娘がお世話になっています」 父は深々と頭を下げました。 一暴れするかと覚悟していましたが、あにはからんや、父は、素直に支部長の話を聴いています。 思えば、ここまでくるのに、長い長い歳月を要しました。 込みあげてくる思いに、涙をこらえることができません。 私は、つつがなく、幸福の科学に入会をした父の横に座り、言いました。 「お父さん……。これだけは、聞いてほしい」 父は、じっとエル・カンターレ像を見つめています。 「私が信じる神様は、主エル・カンターレやねん。もし、つらくて、悲しくて、寂しくて、どうしようもなくなったら、主に祈り、主に許しを請うんよ……」 父の目から、大粒の涙が溢れています。 父は、エル・カンターレ像に手を合わせ、言いました。 「もういっぺん、言うてくれ!」 私は、泣き崩れそうになるのをこらえながら、もう一度父に言いました。 「あんたの娘が信じ、あんたを護ってくれる神様は、主エル・カンターレや!」 父と私の最後の一頁 幸福の科学に入会した父は、うそのように穏やかになりました。 2009年の春には、またも祈願によって道が拓かれ、父は、すべてが理想的に整った施設で暮らせるようになったのです。 そして、2010年2月。 長女が生まれました。 「もしもし、お父さん? 生まれたで。お父さんの言ったとおり、女の子や」 父は、生まれる前から、ずっと女の子だと言っていました。夢に出てきたと言うのです。 長女の誕生を、誰よりも喜んでくれた父。 しかし、彼女がヨチヨチ歩きを始めるころから、父は、車椅子にも乗れなくなり、一日中、介護ベッドの上で過ごすようになりました。 介護を始めて、15年―――。 父は、何不自由ない施設に暮らしています。 それでも私は、父のもとへと通い続けました。 以前は、吐き気を催しそうだった排泄物の処理も、もはや私の日常となり、父が私の手のひらに、おはぎのカスがいっぱいついた入れ歯を吐き出すと、私はそれを、歯ブラシできれいに磨いてあげます。 父のオムツを換えるのも、床ずれの手当てをするのも、すっかり手慣れたものです。 そして、孫たちを見つめる父の笑顔は、まるで天使のようでした。 2011年1月。 私は、再び祈願を受けました。 「どうか、娘が父のことを覚えていられる歳になるまで、父を生かしてください」 そのわずか数週間後の2月3日。 午前時30分。 父は静かに逝きました。 享年、75歳。 あまりにも突然のことでした。 ねえ、お父さん。 ただ、ただ、良くしてあげたい。 これからもずっと世話をしてあげたいと、やっと、心からそう思えるようになったのに……。 もっと生きてほしいと祈願したのに……。 なのに、どうして……? ねえ、お父さん、どうして逝っちゃったの? 私は、講師の言葉を思い出しました。 「介護は、一生涯は続かない。修行がすんだら、ある日突然、『はい、おしまい』ってなるんや」 こうして、私の15年間にわたる父の介護の日々は、静かに幕を閉じました。 お父さん。 もう、お父さんの気配を感じない。 だから、きっと、もう、天国に還っているんだね。 お父さん、ありがとう。 お父さんからもらった宝物を胸に、私は、これからの人生、輝きに満ちて生きていきます。 この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第187号より転載し、編集を加えたものです。 (原題:「憎しみを愛に変え介護15年」) 介護・福祉,死・臨死体験,病気・事故,研修・行事,祈願,親子関係,隔月「ザ・伝道」 関連リンク 幸福の科学 支部 幸福の科学 精舎 同じテーマの記事 人の苦しみには意味があると知って 2015.04.03 Hさん(30代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第226号より転載し、編集を加えたものです。 世の中はなんと不公平だろうと思っていた 中学生の頃からマザー・テレサの生き方に憧れていた私は、「将来は苦しんでいる人たちのお役に立… 続きを読む 同じテーマの記事 脳溢血で寝たきりになった夫を介護――生活不安を乗り越えて 2015.03.14 Nさん(70代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第243号より転載し、編集を加えたものです。 日系アメリカ人の夫との結婚を機にハワイへ 私は日系アメリカ人の夫と結婚し、それを機にハワイに移住。やがて2人の子宝に恵まれました。… 続きを読む 同じテーマの記事 医者として見出した、本当に人を救える医療 2014.12.26 Iさん(40代・男性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第221号より転載し、編集を加えたものです。 患者にとっての幸福とは? 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