戦後70年、ようやく届けられた亡き戦友への供養の心 2015.07.23 Yさん(90代・男性) Tweet この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第204号より転載し、編集を加えたものです。 先の大戦は日本の侵略戦争ではない 先の大戦で、私たちは、戦友とともに陸軍兵士として命をかけて戦いましたが、戦後、「あれは日本の侵略戦争だった」と言われ続けました。けれども事実は、諸外国から石油などの資源の輸入をすべて止められた日本が、やむにやまれず始めた戦争であり、人種差別的な植民地支配からアジアを解放するための尊い戦いでした。 実際に戦場で戦った私は、「若くして没した幾百万の英霊の供養すらしてはいけない」という風潮や、「日本軍は戦地で悪事の限りを尽くした」という話には、どうしても納得しかねます。 当時、まだ20代だった日本の若者たちが、どんな思いで戦い、散っていったのか。少しでも、これからを生きてゆく皆さまに知っていただきたいと思い、私の戦地での体験と、戦後70年の人生を、お話ししてみようと思います。 公のために――陸軍に入隊 私が大日本帝国陸軍に入隊したのは、1941年1月。歩兵として活躍し、お国のために尽くしたい、という思いからでした。自分から軍隊に行きたいと思う気持ちは、今の若い皆さんには理解できないかもしれません。でも私たちの時代は、子供の頃から授業の中で、国や社会、公のために生きることの尊さを教えられていましたし、私は、幼いころから恐れ知らずで、曲がったことが大嫌い。「正義のために戦う」ということに、強く心魅かれていたのです。 大東亜戦争が始まったのは、入隊した年の12月でした。私は、翌年から、中国でいくつかの任務に携わったのち、海路シンガポールに上陸。そして、1944年3月、最も過酷な戦いとも言われる「インパール作戦(※)」に参加することになりました。 ※インパール作戦 1944年3~7月、日本軍が北ビルマからインド北東部インパールへの侵攻を企図した作戦。撤退路の多くで将兵が飢えと病に倒れた。 コヒマの攻防 この作戦は、ビルマからインド北東の要衝・インパールに進攻し、連合国側の、中国への補給路を遮断することが目的でした。 戦闘は予想以上に長期化しました。 軍からの補給は途絶え、弾薬も底を尽き、空からの応援もありません。一方、制空権を持つ敵のイギリス軍は、空から十分な支援物資を投下して、補給は十分。戦車や近代的兵器で猛攻してきます。 我々は、山腹に壕を掘って応戦しましたが、一時間に数万発にも及ぶ敵の砲撃は想像を絶するもので、毎日、誰かが死んでいきました。しかし、誰一人として降伏しようと言う者はいませんでした。それが我々日本軍の誇り、精神力の強さであったと思います。 友軍の「日の丸」 膠着したコヒマでの戦闘が続いていたある日の午後。友軍(※1)機がやってきました。全員、拍手喝采し、機に向かって、ちぎれんばかりに手を振りました。日の丸の赤が目にしみ、目頭が熱くなります。懐かしい家族が待つ日本!愛する祖国・日本!我々は、その日本を護るため、こうして命をかけて戦っている! 友軍機は敵陣を空爆した帰路、地上で交戦する我々への激励のため、「通信筒(※2)」を投下してくれました。 しかし――。 「高兵団(※3)、残存機数十六機。再ビ来タルコトデキズ。諸氏ノ奮闘ヲ祈ル」。通信筒には、そのようなメッセージがありました。我々は、補給を断たれたまま、山岳地帯に取り残されたのです。 「いよいよ、ここが死に場所だ」 6月初旬。ついに我々はコヒマ撤退を余儀なくされました。私は砲弾で、右足を負傷。傷が化膿し、足は樽のように腫れ、アメーバ赤痢にも苦しめられました。 皆、痩せこけて亡霊のような姿でした。雨季に入り、大量の雨が刺すように降るなかでの撤退戦。その話は、これ以上、言葉にはできません。 私は、奇跡的に生き延びました。そして、インパール作戦終了後も、約1年の間、サガイン(※4)などで尚もイギリス軍と交戦したのです。必死の抗戦も虚しく、我々は、翌1945年7月ごろ、ビルマ南部のモールメン(※5)に追い込まれ、ここが「最後の砦」となりました。 私は、少なくなった仲間とともに、日の丸の鉢巻きをキリリと締め、「いよいよ、ここが死に場所だ」と、海を背に、文字通り「背水の陣」を敷きました。今度こそ死を覚悟しました。 しかし、その数日後。「毎日来ていた敵機が来ない」といぶかる我々に、知らせが届きました。 終戦――。全身の力が抜けました。 ※1友軍 味方の軍隊。 ※2通信筒 飛行機などから通信文を入れて地上へ投下するのに使う円筒。 ※3高兵団 ビルマ、サイゴンを作戦地域とした大日本帝国陸軍(第2航空情報連隊・第5飛行師団)の呼称。 ※4サガイン ミャンマー中部の都市。「サガインヒル」には多数のパゴダ(仏塔)が立ち並ぶ。 ※5モールメン 南部ミャンマーの中心都市。(=モーラミャイン) 懐かしの祖国・日本へ その後、私は、捕虜としてビルマに留まりましたが、現地の人たちは、我々日本の捕虜に、とてもよくしてくれました。彼らは、「日本が戦ってくれたおかげで、永年、植民地支配をしていたイギリスをビルマから追い出せた」と、日本に感謝していたからです。 そして、翌1946年6月28日。ついに私たちは、復員船に乗り込み、モールメンの港を後にして、日本を目指しました。 7月14日。復員船は広島県の大竹港に着岸し、懐かしい日本の土を踏みしめました。五年ぶりの祖国です。私たちは涙を流して抱き合い、喜び合いました。 復員の翌日から仕事を開始 翌朝、満員の復員列車に乗り込み、郷里の奈良へ。自宅に戻ると、弟は2カ月前に無事、復員していました。しかし父は、8カ月前に、老衰で他界していたのです。無念でした。 けれど私は、その感傷にひたる間もなく、復員の翌日から、陸軍に入隊する以前に勤めていた税務署で仕事を始めました。「一日たりとも休みたくない」。強い気持ちがありました。「生き残った者のせめてもの仕事は、懸命に働き、焼野原と化した日本の復興に尽くすことだ」「戦地での毎日を考えれば、休んでなどいるのは申し訳ない」――そんな思いがあったのです。 友の霊を想って けれど、どんなに仕事に打ち込んでも、ビルマで死んでいった戦友たちの姿は、片時も心から離れることはありませんでした。 生き残った戦友たちと私は、寄付を募り、数多くの英霊が眠るビルマに、慰霊碑を建立。その後も私は、日本国内でも、毎年夏の供養を欠かしたことは一度もありません。 ただ、「戦友たちは本当に救われているのだろうか。彼らの御霊は、何処へ行ったのだろうか」という疑問が消えることはありませんでした。 戦後の日本を憂う テレビや新聞では、相変わらず、先の戦争や靖国問題などについて、近隣諸国におもねるような報道をし続けていました。近隣の国からの不当と思える圧力に対して、何も言い返せない政治家やマスコミについて、私は「本当に情けない」と思いました。 せめてもの救いだったのは、あの戦争について書かれたいくつかの本のなかで、戦場となったアジア諸国の首脳・高官や、我々が戦った連合国の将校などが、「日本軍はとても規律正しく、勇敢だった」と、たくさんの正当な評価をしてくれていることです(※)。 ところが、不思議なことに、そうした日本にとってプラスとなる正しい情報は、日本国内では、ほとんど報道されません。「こんな理不尽があってよいのか。この国はこのままで大丈夫なのか」。この国の行く末への憂いは募るばかりでした。 ※インパール作戦で日本軍と交戦したイギリス軍の司令官は、「日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした」と語っている(出典『世界から見た大東亜戦争』)。同様の発言は枚挙にいとまがない。 戦後70年を生きて そのような思いを抱えて、私は戦後を生きてきたのです。 私は、大阪国税局の次長を最後に退官し、静かに暮らし始めました。 10年ほど前には、妻も病気で他界。戦友たちの多くも亡くなって、毎年の慰霊祭に参列する人も、近年では、ほんの数人になってしまいました。あの戦争から60数年――。私も90歳を越えました。そんな矢先、大きな転機をいただきました。 2011年、私は、近所に住む女性に、「大川隆法先生が、『あの世』や『霊』について、はっきりとお説きになっている」「先の戦争についても正しいことを教えてくださっている」と聞きました。 私は、「大川先生の説かれるその教えを、もっと勉強してみたい」と思い、翌2012年、三帰誓願(※)をして幸福の科学の信者となりました。 ※三帰誓願 仏・法・僧の「三宝」に帰依して、修行を続けることを誓うこと。 ようやく仏の御許に 大川先生の書籍を読んで、「あの世や霊は実際に存在し、霊は肉体が死んだ後もあの世で生き続ける。そして、この世とあの世を何度も転生輪廻している」と学びました。 「戦友たちの霊も、消えてなくなってしまったのではなく、あの世で生き続けている……」私は、救われた思いがしました。 それならば、今一度、幸福の科学で供養をさせていただき、友らに、地球で一番高いところにおられる神様、エル・カンターレの御光を手向けてあげたい。 2013年8月。私は幸福の科学の「先祖供養大祭」で、英霊の供養をさせていただきました。亡くなった戦友の名簿も奉納させていただきました。この名簿は、自分が死んだら、棺に入れてもらおうと、ずっと大切に大切にしてきたものです。 ビルマに散った多くの戦友たちの顔が、鮮やかによみがえります。多くの友よ。霊天上界で、元気で待っていてくれ。あの世で再会し、抱き合おう――。 「英霊たちの霊よ安かれ――」 私は、幸福の科学の礼拝堂の御本尊の御前で手を合わせました。 ようやく戦友の御霊を仏の御許に送ってあげられた。これで生き残った者の使命をやっと果たせたと、感謝の気持ちが溢れました。 日本の誇りふたたび 大川先生は、講演会や著書のなかで、近隣の覇権主義国家による日本侵略の危機についても警告されていました。その危機を回避するためにこそ、日本人は、今一度、神仏を尊ぶ心、国を愛する心を取り戻し、自国・日本への「誇り」を取り戻すことが大切である、と説かれていました。 2013年8月15日 には、「大川談話」を発表されました。 「政府の見解とされる『河野談話』『村山談話』は、歴史的事実に基づくものではなく、亡くなった英霊とその遺族に罪悪感を与え、歴史認識を大きく誤らせた。大東亜戦争は、アジアの同胞を解放するための『聖戦』だった」という内容のものでした。 70年前、日本は戦争には敗れました。けれど、日本が戦ったことで、アジアの国々は欧米の植民地支配から解放され、独立できたのです。大川先生の言われることこそ、まさしく正しい日本の歴史です。よくぞ、断言してくださった。この言葉を、天国の戦友たちに届けたら、どんなに喜ぶことか……。 これで友らも救われる――。胸のつかえが取れました。 亡くなった戦友たちの名誉のため、そして、この国の名誉のために、私は、あらためて言いたいと思います。 「日本軍は、本当に誇り高かった。大義のために命をかけて戦った。私の戦友たちは、悪いことをしたのでは断じてない!」 私が育った時代には、誰もが「国を愛することは尊い」と信じ、愛国心に溢れていました。それは、世界中、どこの国でも当然のことです。 これからの日本を背負っていく皆さま。ぜひとも自分の国への誇りを取り戻し、素晴らしい日本をつくっていってほしいと切に願います。 この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第204号より転載し、編集を加えたものです。 シニア・老後,信仰との出会い,死・臨死体験,隔月「ザ・伝道」 同じテーマの記事 戦後70年 亡き戦友に捧げる祈り 2015.08.13 Jさん(80代・男性) この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第210号より転載し、編集を加えたものです。 雲の彼方に 「先に逝った戦友たちよ。今から俺も、そこに行くぞ」 1945年7月25日。当時19歳だった私は、「隼(はやぶさ)」の愛称を持… 続きを読む 同じテーマの記事 熟年離婚の危機を乗り越えて――信仰の道を歩んで夫婦円満に 2015.04.24 Cさん(60代・男性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第244号より転載し、編集を加えたものです。 「別れてしまえばすべて解決するのではないか」 私が教師として勤めていた職業訓練校を定年退職したころから、妻の態度がよそよそしくなっ… 続きを読む 同じテーマの記事 沖縄戦という悲しみの記憶を乗り越えて 2015.04.11 Hさん(70代・女性) 終戦を迎えても夢でうなされる母 大東亜戦争末期の日本は、本土防衛の最後の拠点を沖縄としました。そのころ、アメリカ軍が沖縄に迫っていたのです。父は、島民たちに島の北部へ逃げるよう指示。母は、当時まだ赤ちゃんだった私を背負っ… 続きを読む 同じテーマの記事 脳溢血で寝たきりになった夫を介護――生活不安を乗り越えて 2015.03.14 Nさん(70代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第243号より転載し、編集を加えたものです。 日系アメリカ人の夫との結婚を機にハワイへ 私は日系アメリカ人の夫と結婚し、それを機にハワイに移住。やがて2人の子宝に恵まれました。… 続きを読む 同じテーマの記事 本物の真理を知って見つけた生きがい 2015.01.23 Nさん(80代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第223号より転載し、編集を加えたものです。 求め続けていた本物の信仰との出会い いまから30年ほど前、主人が亡くなったのをきっかけに、私は法華経系の伝統宗教の信仰を持つように… 続きを読む 同じテーマの記事 齢(よわい)100歳を迎えて、仏の教えを杖となし 2014.07.20 Oさん(100歳代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第261号より転載し、編集を加えたものです。 86歳からの再出発 明治、大正、昭和、平成。御世(みよ)を四代重ねてまいりましたが、まさか86歳になってから新たな人生を歩み始める… 続きを読む 同じテーマの記事 53歳にして人生観が転換!孤独な職人から副工場長へ 2014.07.04 Hさん(70代・男性) この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第149号より転載し、編集を加えたものです。 勤務先の倒産 「今月で店をたたむことになった。Hさんにも辞めてもらわないと……」 10年以上前のことです。勤めていた老舗(しにせ)和菓子… 続きを読む 同じテーマの記事 母の介護を通してつかんだもの 2013.10.19 悦子さん(70代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第165号より転載し、編集を加えたものです。 「さぁ、好きなことしよう!」 今から十数年前、私が58歳の頃のことです。 当時、外資系企業の人事担当だった私は、オーストラリア人の上司に呼ば… 続きを読む 同じテーマの記事 意志の力で現実を変えていける! 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