娘の事故死……加害者を許し、死別の悲しみを乗り越えて 2013.10.19 Tさん(50代・女性) Tweet この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第195号より転載し、編集を加えたものです。 平穏な朝の風景 私が、最愛の娘、真希(まき)を亡くしたのは、今から5年ほど前の2008年のことでした。 当時19歳だった真希は、早くから成人式に着る振袖を準備して、その日をとても楽しみにしていました。 けれど、11月24日の20歳の誕生日を迎える前に、悲劇は起きました。 その日――9月3日の朝、私は真希を助手席に乗せて、当時高校生だった長男に忘れ物を届けようと、車を走らせていました。 約束の場所に着くと、真希は、助手席の窓を開け、弟に忘れ物を手渡しながら、「勉強、頑張りや」と、声をかけました。 「わかっとるわ」 けれど、それが、仲よしだった姉弟の、最後の会話となってしまったのです。 帰宅すると、真希は、出かける支度を始めました。 ファッションが大好きだった真希は、有名アパレルメーカーに就職し、家から通える市内の店舗に勤務していました。 その日は仕事が休みで、幼なじみのCちゃんとショッピングに出かける約束でした。 化粧品関係の仕事をしていた私も、出勤する時間です。 「真希、行ってくるね」 「気いつけて行きな」 真希は、鏡に顔をくっつけるようにして念入りに化粧をしながら、仕事にでかける私に、そう声をかけてくれました。 元気な真希の最後の姿でした。 「真希が事故った」 その日の夜の8時ごろ。 私がいつもよりも遅く帰宅すると、主人と、同居している私の両親は、すでに夕食を始めていました。 「遅くなって、ごめんな。夕方、真希に、お刺身買って帰るように連絡したんやけど……。まだ帰ってないの?」 すると、電話が鳴りました。 「おばちゃん、ごめん。真希が事故った……」 真希の親友、Nちゃんからでした。 詳しいことは分からないと言うので、きっと大したことはないのだろうと、私は主人と、市内の病院へ向かいました。 そこに、救急車がすべり込んできました。 ストレッチャーで搬送されてきたのは、血だらけの真希でした。 両手を力なくだらんとさせて、声も出せない状態です。 真希は、そのままICUに運び込まれました。 「いったい、何があったん?」 私は、遅れてかけつけた真希の友達2人に問いただしました。 夕方、Nちゃんがショッピングに行った2人を呼び出し、3人で回転寿司を食べたあと、彼女の会社の同僚の男子と、コンビニで合流し、一人ずつ彼の車に乗せてもらうことになった。 最初に真希が乗り、自分たちはコンビニで待っていたが、なかなか戻らない。 救急車が通ったので、見に行くと、コンビニ近くの田んぼに車が突っ込み、大破していた――。 二人はそう話しました。 「頭蓋骨骨折、脊椎損傷、意識不明の危険な状態です」 医師の説明を受けても、その言葉は私の頭を素通りし、私は、「真希は必ず助かる」と信じていました。 そして、娘の手をずっと握り続けたのです。 けれど、真希は、その手を握り返すことなく、翌々日の夕方、静かに息を引き取ったのです。 悲しみにくれて 葬儀がすむと、私は真希の部屋にこもりきりになって、携帯に残されたメールを見ながら、泣き暮らしました。 「弁当箱、自分で洗わへんかったら、次、つくらんよ」 私は、社会人になった真希に、少しは自立してもらおうと、そう言っていました。 けれど、かわいそうに思って、弁当を詰めてやった日には、「おかん、弁当、サンキュー!」とメールをくれた真希。 「厳しいこと言わんと、毎日つくってやればよかった。真希! 真希! 真希に会いたい!」 いくら悔やんでも、もう真希は戻ってきません。 眠れない夜は、夜中に事故現場まで車を走らせ、「何で、私を残して、こんなところで死んだんや! 」と、大声で泣き続けました。 加害者の少年は…… 車を運転していたKくんは、大したけがもなく、葬儀が終わった数日後、両親といっしょに謝罪にやってきました。 19歳の彼は、事故を起こしたとき、100キロを超えるスピードを出し、ハンドル操作を誤って電柱に激突したのです。 「乗せてと言われたから、乗せた」 彼が反省の色も見せず、そう言ったとき、その場にいた家族や親族は、怒りに震えました。 温厚な父までもが、「お前、わしの車に乗れ! 殺したる!」と怒りを露わにしました。 初孫の真希を、父は、それはそれはかわいがっていたのです。 優しい父に、そんな言葉を吐かせるほど悲しませた少年を、私は本当に憎いと思いました。 私は、少年を責め、友達を責め、何よりも自分を責めました。 「もし、あの日、Nちゃんが2人を呼び出さなければ……。私が、『絶対、夕飯のおかず買って帰って!』と、強く言っていれば……。私のせいや。ごめんな、真希。許して……」 娘はどこに? 49日が明けるまで、7日ごとに僧侶が家にやってきて、供養の読経をしてくれました。 私は、すがるように僧侶に尋ねました。 「娘は、どこに行ったのでしょうか?」 「はい、お浄土です」 ただそれだけです。 何度訊いても同じでした。 私は、とても失望しました。 娘があのまま消えて無くなってしまったとは、どうしても思えなかったのです。 「にぎやかなのが好きで、さびしがりやの真希……。たった一人で、どこへ行ってしまったの? 真希がどこに行ったのか、 知りたい……」 そして、ある日の夜。 以前、勤めていた会社の同僚だったSさんから、電話がかかってきました。 「娘さんのこと大変やったね。きっとTさんが、『真希はどこ?』ってずっと苦しんではると思って。Tさんにも、真希ちゃんにも幸せになってもらいたくて、電話したのよ」 私は、Sさんの気持ちが嬉しくて、Sさんが信者になっているという幸福の科学の支部に行く約束をしました。 幸福の科学の支部で 「わぁ……明るい! それにきれいやわ。ここが宗教?」 Sさんの案内で、初めて幸福の科学の支部を訪れた私は、とても驚きました。 支部長は、「私たちが信じているのは、主エル・カンターレという神様で、大川隆法総裁は、その化身です」と、教義である仏法真理(ぶっぽうしんり)を説明してくれました。 そして、人の生命は永遠で、転生輪廻(てんしょうりんね)を繰り返していること。 あの世は美しい世界で、事故や病気で亡くなっても、あの世に還れば元の元気な体に戻ることなどを教えてくれました。 私は、「この教えは本物かもしれない」と思いました。 「真希も、天国で元気に暮らしてるんやろか。そうやったら、どんなに救われるやろう……」 それからしばらくして、Sさんが、何年も前に息子さんを亡くしたというIさんを紹介してくれました。 「幸福の科学の精舎(しょうじゃ)で研修を受けたら、瞑想のなかで、天国の息子に会えたんや。『素晴らしい世界にいるから、心配せんで』って。Sさんの娘さんも、きっと天国から見てはるよ」 Iさんは、柔らかい笑顔でそう言いました。 「私も、真希に会いたい……」 私は、さびしくて悲しくて、どうしようもなくなると、支部に行くようになりました。 「あの世にも、天国・地獄があってな。善い心で生きたら天国に、悪い心で生きれば地獄に行くんや」 霊的人生観や信仰の話を分かりやすく教えてくれたKさんほか、支部の幸福の科学の会員のみなさん。 「泣いてばかりいると、天国の娘さんも悲しむよ。今は悲しくても、いつか、必ず会えるから」と、私を慰め、涙を流しながら何時間でも話を聴いてくれたK支部長。 「この人たちの言うことなら、信じられる」 こうして私は、ほどなく幸福の科学への入会を決意したのです。 そして、家に閉じこもってばかりでは、かえって落ち込むからと、仕事にも復帰しました。 笑顔が消えた家族 けれど、真希が亡くなって以来、わが家では、悪いことばかりが続きました。 父の認知症は悪化し、空き巣に入られ、私も車で事故に巻き込まれ……。 長男までもが、人が変わったように荒れ狂い、私や母に暴力をふるうようになりました。 車で買い物に出かけても、気に入らないことがあると、「お前のせいや!」と、後部座席から私を殴って暴れる長男。 「優しかったあの子が……」 涙があふれました。 長男も、姉の突然の死で、悲しみのあまり、もがき苦しんでいたのです。 「田口さんが悪い心でいると、悪いことを引き寄せて、自分も家族も不幸になるよ」 「恨み心で恨みは解けないよ。人を憎んだり、悲しい悲しいと暗い気持ちでいると、その暗い心に悪霊が寄ってきて、悪いほう悪いほうに行くんだよ」 幸福の科学の方々はみな、そう言いました。 「そんなん言われても……。私の悲しみなんて、誰にも分からない!」 しかし、言われてみれば、暴れている長男は、別人のような目をしていました。悪い霊が憑いているのなら、納得がいきます。 私は、支部や精舎で、「悪霊撃退祈願(あくれいげきたいきがん)」を受けました。 私自身も、体が鉛のように重かったのが、祈願を受けると、心も体も軽く楽になりました。 「このままでは、いけない! 私が心を変えなければ……」 私が祈願を重ね、心を調えていくと、長男も少しずつ落ち着きを取り戻していったのです。 真希が夢に! 年が明けて、2009年のお正月――。 私は不思議な夢を見ました。 それは、私と真希との、ありふれた日常の光景でした。 「あんたには、もう、ほんまに困るわ。まったく……」 私はそう言って、真希の頭に手を置き、クシャクシャっと、髪の毛をなでてやったのです。 たったそれだけの夢でした。 けれど、夢から醒めると、娘の髪の毛の感触が、ありありと私の手に残っていたのです。 「あれは絶対、夢なんかやない! 真希は、ほんまに生きとるんや!」 笑顔で出てきた真希。 きっと天国に還ったのだと、私は心から安心しました。 「与える側」の人生へ 天国の真希のためにも笑顔で生きていこう――。 そう誓ってはみたものの、心はすぐに、事故が起こったあの日に逆戻りしてしまいます。 街で、楽しそうに買い物する母娘の姿を見かけると、うらやましくて、涙が止まりません。 私は、大川隆法総裁の法話CDを聴き、経典を読んで、自分の心を励ましていきました。 「苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。選択とは、何か。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。その選択です」 経典『太陽の法』には、そう書かれていました。 苦しくても、悲しくても、愛を与える側に立つ。 私にとっては、とても高いハードルでした。 息子さんを亡くし、泣いてばかりいたIさんも、支部長に、「いつまで愛を奪って生きるつもりですか!」と叱咤され、与える側に立とうと決意した日があった、と話してくれました。 私も、仕事で若い女性にエステをすると、「真希が生きていれば……」と落ち込んでいましたが、「真希の代わりに、この子をうんときれいにしてあげよう!」と気持ちを切り替えると、自分も元気になれました。 けれど、月命日に自転車に乗って、一人で線香をあげにくるK少年を前にすると、私の心は揺れました。 反省しているようには見えず、「許せない」という思いが募ります。 それでも、彼も「仏の子」。 私は、無表情で無反応なこの少年にも、何とか仏との縁をつけてあげたいと、幸福の科学の書籍や布教誌を手渡し、支部にも連れて行きました。 法廷での意見陳述 7月の終わりごろ、事故の裁判が始まりました。 法廷は何度か開かれ、9月の最後の公判で、私は「意見陳述」をしました。 <意見陳述> 愛娘の真希を失って、はや1年がたちました。 立場は違えど、同じ事件を巡って苦しむ者として、加害者側もさぞつらかろうと、言いたいことも我慢してきました。 親御さんも、せめて命日くらい、花を持たずとも、お参りに来てくれていたなら、私たち遺族の気持ちも少しは癒されていたことでしょう。 私たちの気持ちを知ってもらうことなく、今日を迎えたように思います。 けれど、恨みつらみの暗い心で、病気になったり家族がバラバラになったりしたら、真希はきっと苦しむ。 そんな思いは絶対にさせたくない! ならば、一日一日を大切に、周りの人に感謝し、前向きに生きることが、真希にしてあげられる唯一のことだと思い、私も日々、努力してきました。 Kくんには、命の尊さを十分認識し、二度と私たちのように悲しむ人をつくらないと誓ってもらいたいと思います。 一瞬の驕りから起こしてしまった重大な事故により、あなたの人生も険しいものになったことでしょう。 けれど、まだまだ未来ある若者です。 あなたでしか分からないこと、あなただからこそできることもあろうかと思います。 今は天使になっている真希も、あなたのこれからの生き方を見ていることでしょう。 厳しい道かもしれませんが、どうか前向きに頑張ってください。 少年に下った判決は 10月5日、判決が下りました。 危険運転致死罪。 6年の求刑に対し、3年の実刑判決でした。 しかし、驚いたことに、少年側は、控訴したのです。 「何で? あなたは私に、どんな刑でも受ける、一生かけて償う。そう言うたやん!」 少年の意思ではなかったのかもしれません。 けれども私は、大きなショックを受けました。 控訴審は、翌1月、大阪の高等裁判所で行われました。 公判当日、裁判所の廊下を、弁護士と2人だけで歩いてくる少年を見て、私は胸をつかれるような思いがしました。 彼の両親は、息子の人生が決まろうという最後の法廷に、何と、姿を見せなかったのです。 「ああ、この子。たった独りで……。この子も、かわいそうな子なんやなぁ……」 一瞬ではありましたが、心を過った少年への思い……。 その慈悲のかけらのようなものは、今でも私の心の片隅に残っています。 娘を偲んで 結局、控訴棄却で3年の実刑が確定し、Kくんは、その年の2月から服役しました。 私は静かに真希のことを偲びたいと思い、11月、主人といっしょに、総本山・那須精舎で「『故人の徳を偲ぶ瞑想』研修」に参加しました。 研修の1日目に、故人に宛てて、手紙をつづりました。 真希。あなたは、心が純粋で優しい子でしたね。 小さいころ、私が疲れて仕事から帰ると、「おかあちゃん、お帰り」と走ってきて、ほっぺにキスしてくれました。 それだけで、私はとても癒されました。 あなたのおかげで、私は、主と出会うことができました。今度は、あの世で会いましょう。 ありがとう、真希。 翌朝、書いた手紙を、お焚きあげしてもらいました。 その日は雲ひとつなく、真っ青な空が、どこまでも広がっていました。 手を伸ばせばすぐそこに真希がいて、私たちを見守っているように感じました。 娘を失った悲しみ、加害者の少年とその両親への憎しみ、幸せそうな母娘への嫉妬……。 あらゆるドロドロした思いも、仏の慈悲の光で、きれいに洗い流されていくようでした。 仏の大いなる御手に優しく抱かれているような安心感に包まれて、私は、心から癒されていきました。 「おじいちゃん、おやすみ」 それからすぐに父が入院しました。 翌日には容体が急変し、家族が呼び寄せられました。 私は、「お迎えがきたんやな」と静かに受け入れ、父に感謝の思いを伝えました。 「おじいちゃん、たくさん愛して育ててくれて、ありがとう。私は、あなたの娘として生まれて、ほんまに幸せやった」 父は、手で空をつかむようにして、何かをさがすようなしぐさをしました。 「何か見えてはるん? 真希か? 真希が来てるんか? 」 「見えてはる。来てはる」 「ああ……。真希が迎えにきてるんや!」 父は主人の手をしっかり握って、「みんな、力を合わせて仲よう」、そう言って、眠るように息を引き取りました。 「おじいちゃん、おやすみ。あの世で真希と仲ような。真希を、よろしく……」 家族に囲まれ、CDから流れる「正心法語(しょうしんほうご)」に送られて、眠るように逝った父。 以前の私なら、病院側に落ち度があったのではと、医師に詰め寄っていたかもしれません。 さびしい気持ちはもちろんありました。 けれども、父をこんなふうに穏やかに送れたのも、幸福の科学の教えのおかげだと、感謝の気持ちでいっぱいでした。 天国で真希に会えるその日まで 2012年の秋。 Kくんが、予定よりも半年早く出所してきました。 以前より太った彼の姿を見て、「刑務所の塀のなかで楽してたん?」と、心が揺れなかったわけではありません。 けれど、「この子を許すのも、真理に導くのも、私の使命。人生の問題集や」と考えると、少しは前向きになれました。 私は、映画「神秘の法」のチケットを2枚、彼に手渡しました。 その後、「妹と観に行った」と言っていました。 娘を失った悲しみは、今はまだ、完全には癒えてはいません。 けれど、私には信仰があり、愛する家族や法友がいて、家もあり仕事もある。そう感謝できる私は幸福です。 もし、あのときSさんが、私を幸福の科学に導いてくれていなければ、私はずっと、恨み憎しみ悲しみの毎日を送っていたことでしょう。 だから私も、縁ある人みんなに愛を与え、仏法真理を伝えていこうと思います。 天国で真希と再会したときに、「おかん、よう頑張ったな」そう言ってもらえるように。 この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第195号より転載し、編集を加えたものです。 (原題:「最愛の娘との天国での再会を信じて」) 死・臨死体験,病気・事故,研修・行事,祈願,隔月「ザ・伝道」 関連リンク 幸福の科学 精舎 幸福の科学 支部 正心法語 同じテーマの記事 戦後70年、ようやく届けられた亡き戦友への供養の心 2015.07.23 Yさん(90代・男性) この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第204号より転載し、編集を加えたものです。 先の大戦は日本の侵略戦争ではない 先の大戦で、私たちは、戦友とともに陸軍兵士として命をかけて戦いましたが、戦後、「あれは日本の侵略戦争だ… 続きを読む 同じテーマの記事 息子との死別を乗り越え、悲しみの底で見出した「幸福への道」 2015.05.15 Kさん(50代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第219号より転載し、編集を加えたものです。 息子の突然の死 「無理しないでね。気をつけて帰って来るんだよ」 「大丈夫だって、お母さん。じゃあ」 それが、電話で交わした、Yとの… 続きを読む 同じテーマの記事 ガンで亡くなった友の命がけのメッセージ 2015.03.26 Mさん(30代・男性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第247号より転載し、編集を加えたものです。 仲間と夢を語り明かした日々 故・S君(享年33歳)と僕は学生時代に知り合い、すぐに意気投合して親友になりました。同じ信仰を持つ仲間… 続きを読む 同じテーマの記事 意識不明の重体だった3週間に私が見たもの―― 2014.09.14 Yさん(20代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第238号より転載し、編集を加えたものです。 通学中トラックにはねられ、意識不明の重体に 数年前のある朝。高校1年だった私は、いつものように自転車で通学路を走っていました。横断… 続きを読む 同じテーマの記事 亡き妻が教えてくれた「あの世は絶対にあるよ」 2014.07.05 Kさん(40代・男性) この記事は毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第230号より転載し、編集を加えたものです。 40歳の若さで亡くなった妻 数年前、5人の子供と私を残して、妻のHが40歳の若さで、がんで亡くなりました。もし信仰がなかったら、私… 続きを読む 同じテーマの記事 夫の死の悲しみを乗り越えて「あなた、天国でまた会いましょう」 2014.06.01 Kさん(40代・女性) この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第150号より転載し、編集を加えたものです。 夫の死の悲しみを乗り越えて 「あなたが天国に旅立ってから、もうずいぶん経ちましたね。私も2人の息子たちも元気にすごしています。あなたも… 続きを読む 同じテーマの記事 先祖供養大祭のなかで心に聴こえた懐かしい声 2014.05.13 Oさん(70代・女性) この記事は、毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第259号より転載し、編集を加えたものです。 長年つれ添った愛する夫との死別 今から数年前のことです。長年つれ添った夫の大腸がんが発覚。その後、手術を受け、闘病生活を送ること… 続きを読む 同じテーマの記事 人生の意味を知ることは死への恐怖を消す光 2014.04.19 Sさん(女性・香川県) この記事は、毎月発刊の機関誌「What’s幸福の科学」第58号より転載し、編集を加えたものです。 私は産婦人科医をしています。終末期医療の第一人者だった父は、5年前、ガンで他界しました。父は自らガンと闘いなが… 続きを読む 同じテーマの記事 肝臓ガンで主人を亡くして 2013.11.06 (40代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第124号より転載し、編集を加えたものです。 主人を肝臓ガンで亡くした当時、私は、4人の子どもたちを抱え、将来の不安でいっぱいでした。しかし、映画「黄金の法」をきっかけに、仏法真理と出… 続きを読む 同じテーマの記事 母の死を乗り越えて 2013.10.31 ひじきさん(20代・女性・香川県) 信仰は心の支え 幸福の科学では、「死後も魂は消えずに存在している」と教えられています。 私は、小学生のときに母を亡くしましたが、当時から幸福の科学を信仰していた私は、「またいつか、母に会える」と信じて疑いませんでした。 … 続きを読む 同じテーマの記事 末期がんの母に起こった本当の話 2013.10.31 ひじきさん(20代・女性・香川県) 私は、友人に幸福の科学の世界観を伝えるときは、いつもこの話をします。 あの世がないわけないでしょ、と。 実話だからこそ、みんな「そういうことってあるんだ」と納得するのだと思います。 寝ていた母が突然叫びだす 私が、あの世… 続きを読む 同じテーマの記事 アル中の父親を許し介護した15年間 2013.10.19 Iさん(40代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第187号より転載し、編集を加えたものです。 アル中の父から虐待されて 「何べん言うたら、分かるんや!」 父はそう怒鳴ると、まだ小学生だった私の髪の毛をつかんで引きずり、さらに、背中を拳… 続きを読む 同じテーマの記事 2人の子供を亡くした女性が悲しみを乗り越えるまで 2013.10.19 みぽりんさん (50代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第180号より転載し、編集を加えたものです。 2人の子供を見送って 私たち家族は、幸福の科学の霊園である、栃木県那須郡にある「来世幸福園(らいせこうふくえん)」を訪れました。 ここに来る… 続きを読む 同じテーマの記事 自殺遺児の方々へ 父と母を焼身自殺で失って 2013.10.02 Bさん(30代・男性) 11歳の頃に体験した母の自殺 母が焼身自殺したとき、私は11歳でした。 寝床で眠りにつこうとしたときに、窓の外に火柱が立ったのです。 あわてて外に飛び出すと、すでに手遅れでした。 そのときのショックは、その後の私の人生に… 続きを読む 同じテーマの記事 難病を持つ娘と過ごした日々 2013.10.01 Kさん(40代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第111号より転載し、編集を加えたものです。 生まれたばかりの娘が難病を抱えていた――。 それは、「自分は不幸だ」と思うには、十分すぎる理由でした。 どん底のような思いで生きる日々……。… 続きを読む 同じテーマの記事 「父の自殺」を乗り越えて 2013.01.17 Aさん この動画をダウンロードし、別チャンネル・サイトでアップロードすることはお控えください。 ウェブサイトなどでご紹介される際はURL(http://youtu.be/ADKVNTIv5u8)をお使いください。 現在日本では、… 続きを読む 同じテーマの記事 臨死体験を通して信仰が深まった 2012.10.05 Mさん(20代・女性・アメリカ) 17歳で手術を受け、臨死体験 母親が幸福の科学会員だっため私も会員になり、学生部の研修などにも何度も参加させていただいていました。 私は17歳のころ、手術を受けました。手術を受ける前の不安はありませんでした。 しかし手術… 続きを読む 同じテーマの記事 生きてる意味がわかった! 2012.10.04 Mさん(20代・女性・東京都) 「宗教」への反抗と「人生」への疑問 私は親が会員だったので、小学生の頃、自然に入会しました。 一緒にお祈りしたり、支部に行って遊んだりもしました。 でも、中学に上がり、だんだんと自分の家だけ宗教をやっていることに疑問を持… 続きを読む 同じテーマの記事 魂は不滅だと知り、積極的になった 2012.10.03 Mさん(20代・男性・東京都) あの世があり、人間の本質は魂で、死んだとしても、魂は不滅で自分の個性が存在し続けると知ったことは一つの人生の転機でした。 勉強したことや、経験したことは無駄にはらないと考えると、希望とやる気が湧いてきます。 努力したり、… 続きを読む 同じテーマの記事 地下鉄サリン事件を乗り越えて 2012.10.03 Cさん(40代・男性) この動画をダウンロードし、別チャンネル・サイトでアップロードすることはお控えください。 ウェブサイトなどでご紹介される際はURL(http://youtu.be/IC1oqZVTjMI)をお使いください。 1995年3月… 続きを読む