食物アレルギーの娘――必要な栄養は親の愛だった 2015.09.01 Nさん(女性) Tweet この記事は毎月発刊の機関誌「ヘルメス・エンゼルズ」第123号より転載し、編集を加えたものです。 食物アレルギーの長女 長女のMが生後半年の頃。それまでの母乳から、初めて粉ミルクを与えた直後のことです。 ミルクを吐き出し、私の腕の中で息も絶え絶えな愛娘の様子に、すぐさま病院に駆け込みました。 幸い大事には至らず、ほっと胸をなでおろした私は、医師の言葉に、さらにショックを受けることに――。 「娘さんは、食物アレルギーのようですね」 私達夫婦はアトピー性皮膚炎を患っていて、Mも生まれた時から肌の弱い子でした。でも、まさか食べ物にまでアレルギーが出るとは思ってもいませんでした。 しかも食物アレルギーを引き起こすと言われる、三大アレルゲン(卵・牛乳・大豆)のすべてに反応すると言うのです。 以来、我が家の食に対するスタンスはガラリと変わりました。ミルクをアレルギー疾患用に代え、離乳食の食材も成分表示を見て、慎重に選びます。それでも、一度大丈夫だった食材からもじんましんや湿疹が出てしまうことがあり、安心できません。 食事の30分前には、アレルギーを抑える薬を欠かさず飲ませなくてはなりません。食べ物に敏感なのか、偏食も多く「たった一口、二口のために、ここまでしないといけないの?」と思うほど手をかけても、吐き出してしまうことが度々あります。 主人は出張で家にいないことが多く、頼ることができませんでした。Mにとっては、口にするものすべてが命に関わるため、いつもプレッシャーが重くのしかかっていました。 食事をめぐり、毎日気の休まる時がないのです。先の見えない不安でいっぱいになりながら、一方で、他の子と同じように食べたり飲んだりするという、当たり前のことができないMが、かわいそうでなりませんでした。 アレルギーが治った後も偏食が続いた Mが3歳になると、ようやく医師から「もういいですよ」と、食材の制約が取れました。 私は嬉しくてたまりませんでした。 ちょっと遅れたけど、これからMには、心身共に健康になって、人の役に立って欲しい!と思いました。 そんな期待に反し、食卓に初めて出す料理にMは手をつけようともしませんでした。食も細く、幼稚園の小さなお弁当も、いつも残してきます。 この頃は、生まれたばかりの妹のKの面倒をみながら、Mの食事にも気を遣い、正直、数倍手間も時間もかかりました。 「Mちゃん、残さないで食べなさい!」 食卓はいつも叱咤激励の場。 どんなに一生懸命時間をかけて食べやすいように工夫しても、食べてくれないMを見ていると、ただのワガママに思えてくるのです。 「お姉ちゃんなんだから、しっかりしてよ。もうアレルギーを気にしないで、何でも食べられるはずなのに、何で食べないのよ!」 「病気しないだけでもありがたいわよね」 Kが幼稚園に上がり、時間ができた私は、以前から信仰していた幸福の科学の支部に顔を出すようになりました。 ある日、幸福の科学の友人にMのことを話してみました。 「うちの子、食物アレルギーは大丈夫だと言われたのに、偏食で、いつも同じものしか食べないのよ」 「それは心配ね。Mちゃんは体が弱いの?」 「ううん。普通に元気かな」 「あら、それは良かったじゃない!元気だったら、少しくらい食べなくても、病気しないだけでもありがたいわよね」 ドキッとしました。とても大事なことを言われた気がしたのです。 食べないのはワガママだと思っていた それからは、お祈りや買い物、食事の用意をしながらも、事あるごとにMのことを考えました。 「Mはもう何を食べても平気なはずなのに、どうして食べようとしないの?食べたことがない料理だからではなく何か他の理由があるの?」と考え続けていると、ある時、こんな光景を思い出しました。 いつものようにお弁当を残してきたことで注意をしたら、「ママは、Kちゃんばっかり!」と、目を真っ赤にして、部屋を飛び出していったMの姿でした。 この時、Mの「寂しい!」という気持ちが私の胸にダイレクトに伝わってきたのです。そういえばこれまでにも「もしかして、Mは寂しいのかな?」と思う瞬間がありました。 「お料理に手をつけなかったのも、Mなりのサインだったのかもしれない。やっぱり寂しかったんだ……」 食べないのはMのワガママだと思っていました。けれど、本当は愛して欲しいことを上手に表せなかったために、私に気持ちを向けて欲しいというサインとして、症状が出ていたのかもしれません。 そして、もう一つ気づいたことがありました。 私は、医師からOKが出たとたんに、遅れた分を取り戻そうと「あれも食べなさい」「これも食べなさい」と急かせていました。それが子どもへの愛だと思っていたのです。 私はアレルギー反応を出さない料理を用意することに必死で、Mがどう感じているのか、考えてもいませんでした。無理をさせてまで思い通りにしようとするのは、親のエゴでしかなかったのです。 「Mの中ではまだOKではなかったんだ。Mは、私が手間ひまかけて料理に気を遣うより、側にいて抱きしめて欲しかったんだ。もっともっと愛して欲しかったんだね……」 Mの気持ちが伝わってきて、申し訳ない気持ちがあふれてきました。 愛は栄養源 私は、Mにきちんと向き合い、愛していることをしっかり表現していこうと思いました。 「Mちゃん、すごいね。今日はいつもより多く食べたのね。がんばったね」 そう口に出して褒めてあげるようにすると、「ママ見て!」と嬉しそうに空のお皿を見せにきてくれるようになりました。 スキンシップを多くすると、Mの表情がハツラツとしてきて、短期間のうちに、みるみる変化が現れてきたのです。 それからは食欲も出てきて、1年生の1学期は給食を残すことも多かったMが、3学期にはほとんど全部食べられるようになったのです。 ある晩、主人が言いました。 「最近、Mの肌のカサカサ、なくなってきたんじゃないか?」 「あっ、本当だ。そういえば、この冬は全然皮膚科にお世話になっていなかったわ」 皮膚症状もどんどん良くなり、時々、唇が腫れることはありますが、激しい症状が現れることはなくなりました。 心をこめてMを愛そうと決意しただけなのにこの変化。親の影響力はすごいものだとつくづく感じます。 幸福の科学には「生きていくための大きな力。それを励ましとして、自分自身が内なるエネルギーをつくって前進していけるもの。それが愛ではないでしょうか。」という教えがあります。 Mを見ていると、「子どもは親の愛情をエネルギーとして生きているんだ」と本当に思います。 私は、時間をかけ食事に配慮することで、一生懸命に愛を与えていたつもりでしたが、子どもの気持ちを受け止め思いやってあげてこそ、本当の愛なのだとわかりました。 子どもたちには、深い関心と細やかさを忘れないで、これからも、心をこめてたっぷりと愛を与えていきたいと思います。 この記事は毎月発刊の機関誌「ヘルメス・エンゼルズ」第123号より転載し、編集を加えたものです。 出産・育児,月刊「ヘルメス・エンゼルス」 関連リンク 幸福の科学機関誌 月刊「ヘルメス・エンゼルズ」 『機嫌のいい子に育つ ママの口ぐせ』 同じテーマの記事 幸福の科学の研修を受けて長女を愛おしく思えるようになった 2015.04.17 Fさん(40代・女性) この記事は毎月発刊の機関誌「ヘルメス・エンゼルズ」第108号より転載し、編集を加えたものです。 「私のこと、かわいくないんでしょ」 長女のRが2歳半のときに、弟のYが生まれました。 以来、私はYの世話で忙しく、「いい子に… 続きを読む 同じテーマの記事 養母との関係を見直して――心配性の克服で豊かな愛の子育て 2015.03.06 Cさん(女性) この記事は毎月発刊の機関誌「ヘルメス・エンゼルズ」第112号より転載し、編集を加えたものです。 心配が募っていく…… 「自分の意見を言えるようになろう」 小学4年生の娘のMがもらってきた通知表を見て、私はがっかりしました… 続きを読む 同じテーマの記事 重度障害を持つ三男は家族の宝物! 2014.04.19 Aさん(女性・岡山県) この記事は、毎月発刊の機関誌「What’s幸福の科学」第58号より転載し、編集を加えたものです。 妊娠6カ月のとき、お腹にいる三男に、重い障害があると判明しました。1カ月くらい、何も手につかないほどショックで… 続きを読む 同じテーマの記事 ダウン症の次男の子育てで気づいた、小さな成長を喜ぶ心 2014.03.11 Sさん(女性) この記事は、毎月発刊の機関誌月刊「ヘルメス・エンゼルズ」第119号より転載し、編集を加えたものです。 不安性の私 私は、人から「趣味は何ですか?」と聞かれると、「子育てです。」と答えます。 子育ては大変なことも多いけれど… 続きを読む 同じテーマの記事 いじめ、不登校、非行……私が立ち直るまで 2013.11.30 Mさん(20代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第120号より転載し、編集を加えたものです。 私はいま一児の母です。10代のとき、私は不登校や非行など荒れた生活をしていました。そんな私が、立ち直ることができたのは、仏法真理と家族の励… 続きを読む 同じテーマの記事 難病を持つ娘と過ごした日々 2013.10.01 Kさん(40代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第111号より転載し、編集を加えたものです。 生まれたばかりの娘が難病を抱えていた――。 それは、「自分は不幸だ」と思うには、十分すぎる理由でした。 どん底のような思いで生きる日々……。… 続きを読む