あきらめていた姑との葛藤 2014.04.08 Sさん(女性) Tweet この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第119号より転載し、編集を加えたものです。 姑が他界してから数年 姑が他界してから数年がたちました。日々のふとした折、姑を思い出します。 花や木が大好きで手入れをしていた姿、好物の和菓子を食べるときのほころんだ顔──。 すべてが温かく懐かしくよみがえってきます。 姑との葛藤に悩んでいた私がこのような気持ちになるまでの経緯をお話します。 きっとうまくやっていける 私が友人の紹介で知り合った主人と結婚したのは、20年以上前のことでした。 主人の家は母一人子一人。姑がアパート経営などをしながら、女手一つで育てられたそうです。主人はそのことに恩義を感じているようで、とても母親思いの人です。 私も、いかにも江戸っ子らしくハキハキして、しっかりした印象の姑に、好感を持っていました。当然のように姑も同居ということで、新婚生活がスタートすることになったのです。 既婚の友達からは「嫁姑って大変だよ」と苦労話を聞かされていましたが、「きっとうまくやっていける」と思っていました。 「お義母さんも70歳過ぎてるし、私が家事を代わったら喜んでくれるんじゃないかしら」 内心、「嫁として歓迎してくれるかな」と、少しは期待もしていました。 とまどいの毎日 ところが、私の考えは甘かったことを、すぐに思い知らされることに……。 庭いじりや台所仕事をするのが好きな姑は、めったに外出することがなく、主人が会社に行ったあとの時間は、姑とずっと二人きりになります。 その間、私の一挙手一投足に対し、姑は細かく注意してくるようになったのです。 「トイレの電気、点けっぱなし!」 「水が漏れてる!」 離れた場所から、しょっちゅう怒鳴り声が飛んでくるので、気が休まりません。のんびりした性格の私には、なぜ姑に怒られているのかが分からず、とまどうこともよくありました。 「なに、これは。失礼じゃないの!」 食事中に突然、怒りだした姑。私にお味噌汁のお椀をつきだしました。 「えっ?」 一瞬、わけが分からず、椀のなかを見ると、茄子の端の部分が浮いていました。 (あっ、端っこを入れるって失礼になるの? 知らなかったわ。……それにしても、私だって悪気があったわけじゃないんだから、もう少し優しく言ってくれても) 姑の話は、理屈としては通っていても、言い方がきついので傷ついてしまいます。 でも、面と向かって言い返せない私は、いつも黙っているしかありませんでした。 主人が帰宅すると、さっそく姑の声。 「ねぇ、今日、Sさんがね……」 二階にいる私にまで聞こえてきます。思わず聞き耳を立てていると、日中、ちょっと気まずいことがあったりすると、事実よりオーバーに告げているのです。 こういうとき、主人はあとで優しく慰めてくれます。 「昼間、どういうことがあったの?」 「聞いてよ。実はね……」 「ああ、そうだったのか。……あまり気にしないほうがいいよ」 主人が私のことをとても大切にしてくれるのが救いでした。 けれども、そうした毎日を半年も続けていくと、心のなかの痛みは溜まる一方で、もう耐えられなくなりました。 「私は一生懸命やっているつもりなのに、なんでこうギクシャクしてしまうんだろう。お義母さんは、私のことを受け入れてくれてないのかしら。お手伝いさんぐらいにしか思われてない気がする……」 なんだか涙がこぼれてしかたありません。 ついに私は、姑を避けるように、パートに出ることにしたのです。昼間、外で働いているときだけが、私にとってホッと息をつける時間でした。 喜びと不安と…… パートに出て1年ほどたったころ、私は妊娠に気づきました。 待望の赤ちゃん──。喜びの反面、不安がどっと押し寄せてきます。 「出産したら、また家のなかにいなければいけなくなる。そうしたらお義母さんと1日中ずっと……。こんな状態で子供を伸び伸び育てられるかしら……」 私にはとうてい自信がありません。悩んだあげく、主人に相談しました。 「お願い。子供が幼稚園に上がるまでは、お義母さんと別居したいの」 「おいおい、なに言ってるんだ」 親思いの主人は当然、反対しました。 けれども、せっぱ詰まっている私に、さすがに主人も「このままではまずい」と思ったのか、最終的には別居を決心してくれたのです。 しかし、別居の話を聞いた姑は、こちらが想像していた以上にショックを受け、一晩、家を空けたまま帰ってきませんでした。こんなことは初めてでした。 申し訳なさと、いたたまれなさと……。 私たちはスープの冷めない距離にアパートを借りて、ことあるごとに姑を訪ねるようにしました。別居して精神的には楽になった一方で、独り暮らしをする姑のことが気にかかってなりません。 やがて私は長女を出産。姑の喜びようはたいへんなもので、お宮参り、お食い初め……長女のお祝いごとは、全部、姑の家でしました。 親子をつなぐ縁 長女が1歳を過ぎたころです。 デパート主催の育児セミナーの会場で、“親子はあの世で約束して生まれてくる”という話を小耳にはさみました。 私も毎日、育児に励むなかで生命の不思議を感じていたからでしょうか、「ひょっとしたら、そうかもしれない」と共感するものがありました。 そのお話を詳しく知りたいと思っていたところ、それは大川隆法という方の本に書かれている内容だと分かったのです。さっそく何冊か本を読んでみました。 特に新鮮に感じたのは、「人間は魂修行をするために、あの世とこの世を転生輪廻している」という教えでした。 「もし、本で書かれているように、親子や家族として生まれるのは偶然ではなくて、何度も一緒に生まれ変わっているというなら、身近な人たちのことも、今までとは見方が変わるかもしれない……」 「この教えをもっと学んでみたいな」と思った私は、それからまもなくして幸福の科学に入信したのです。 再びの同居 その後、長女が幼稚園に上がる直前、私たちは再び姑の家に戻ることにしました。家に戻ってからほどなくして、私は第2子を妊娠、出産しました。 今度は男の子です。姑は孫たちの笑顔やしぐさに目を細めています。おもちゃや服を買ってきてくれたり、入浴を手伝ってくれたり──。 私が長女の幼稚園のことで出かけなければいけないときなど、姑が下の子を見てくれて、たいへん助かりました。 こうして、家庭は2人の子供を中心にまわりはじめました。 一方、私の信仰に、姑は反対しませんでした。 わが家で地域の信者の集いを開くと、時折、姑も一緒に参加するようになりました。 「幸福の科学の人はみんないい人だね。一緒にいると心がなごむよ」 姑は幸福の科学に好感を持ったようでした。やがて大川先生の御法話も聴くようになり、入信したのです。 心のキズ 2度目の同居の日々は、子供のおかげもあり、姑とぶつかることも、自然となくなっていきました。しかし、表面的にはうまくいっているように見えても、私は姑と深く関わりあうのを避けていました。 過去、姑の言葉で傷ついたという思いを、どこか引きずっている自分がいたのです。 子供のおやつを作りに、ちょっと台所に立つと、すぐ「なにしてるの?」と姑。(もう……こんなことまで、いちいち説明しなければいけないの?) 些細なことまで詮索されると、なんだか責められているような気がして、過去の心のキズ口が開いてしまうのです。 「こんなことも、あんなこともあった……。許せない。どう考えても私は被害者だわ」 つらかった思いが次から次へと噴き出してきて、私自身を苦しめました。 幸福の科学では、嫁と姑の縁は深いと学んでいます。 『嫁と姑は、実の母と娘よりも関係の深い魂であることが多いのです。それほど深い縁があることを知らなくてはなりません』(『「幸福になれない」症候群』より) 「確かに、嫁と姑も偶然じゃないのかもしれない」とは思うものの、心の奥底には、姑にさんざん苛められた思いが強く残っていて、どうしても納得できません。 「うちだけは例外なんじゃないかしら」 「ザ・伝道」や「月刊 幸福の科学」といった幸福の科学の機関誌に、嫁姑の葛藤が解決した体験談が載っていると、食い入るように読みました。けれども……。 「この人のは、まだ私よりいいわよ」 「私はこんなに立派じゃないからできないわ」と思ってしまうのです。 初めは姑に対する思いを変えようと、もがいていた私も、だんだん考えるのが嫌になりました。 「もうムリ。解決できないわ」 とうとう姑との問題を意識の外に追いやってしまいました。 嫁として普通に接していても、内心は姑と距離を置く状態。そのまま何年も過ぎていきました。 リングに上がっている私 ある夏のこと。栃木の実家に帰省した折、幸福の科学の総本山にも立ち寄って研修を受けていこうと思いました。軽い気持ちで総本山・未来館に向かいました。 研修が始まり、最初に大川隆法先生の御法話「常勝思考─光明転回の理論」を拝聴しました。 「まさしく悩みの中心になっているものは、みなさんの人生の問題集がいったい何であるかを教えているということなのです」 「試合が始まって、『赤コーナー』と呼ばれたならば、やはりタオルを取って、リングに上がらなければなりません」 「リング上で、『自分はそもそも頭が悪い』『環境が悪かった』『親がこうだった』『兄弟が悪かった』『貧乏だった』などというたぐいのことを言うとは、どうしたことでしょうか」(『常勝思考』第二部として収録) 「おばあちゃんとのこと言われてる……」 ドキッとしました。 「あぁ、いま私は、まさにリングの上に上がっているんだわ」 御法話では、人間が転生輪廻する意味は魂修行のためであり、悩みは魂を磨くための砥石であると説かれていました。 ずっと見ないふりしていた嫁姑の問題が、急に棚から下ろされたようでした。 「いまが人生のリングに上がって勝負しなければいけないときなんだ。言い訳がきかない。私も解決しなければいけない」 覚悟を決めて取り組みました。 ところが夜になっても、まったく解決の糸口が見つかりません。困ってしまい、講師の方に面談を申し込みました。 「Sさん、どうしました?」 「あのー、私はおばあちゃんと……」 いきさつを一部始終話しました。長年、一人で心のなかに溜め込んでいた悩みを聞いてもらったのは初めてでした。 「──確かに、おばあちゃんもきついところがありますね」 講師は同情を寄せてくださいました。 「……でもね、おばあちゃんは、あなたのことを自分の実の娘と思って接しているんじゃないですか。だから、きついこともたくさん言ってたんじゃないですか」 「えっ、実の娘ですか?」 「だけど、あなたは心を開いてこなかった。おばあちゃんはどんなに悲しかったか。寂しかったと思いますよ」 「おばあちゃんが寂しかった」などと、まったく考えたこともありません。講師の指摘に衝撃を受けました。 「掃除とか台所仕事とか……怒られてばかりいた。おばあちゃん、とてもきっちりした人だから、ぼんやりした私を見てて、もどかしかっただろうな。でも、ほんとうは自分でやりたかったのをガマンして、私のためにさせてくれてたのかもしれない……」 そう考え出すと、すべてがひっくり返って見えてきました。 「おばあちゃんに、もっと優しくしてほしいって思ってたけれど……逆だ。私は、この家に来たお客さんのような気持ちでいたのかもしれない。おばあちゃんは、私を身内として受け入れてくれていたからこそ、『実の娘』に言うように、遠慮なくなんでも言ってくださっていたんだ。……なのに、私が一方的にバリアを張ってた。おばあちゃんを受け入れようとしていなかったのは私のほう……」 涙がボロボロ流れました。 「ごめんなさい! 私、おばあちゃんの気持ちを全然分かっていませんでした。結婚当初に戻って、もう一度、おばあちゃんと人生やり直したい!」 その夜は泣き通し。私は目が腫れあがったまま、翌日、家路についたのです。 もう一人の私って? 研修の反省は、照れくさくて、姑に面と向かって話せませんでした。そのうち姑が妙なことを言い出したのです。 台所でお料理を作っていたときでした。 「おかしいわねぇ……」 後ろから姑が声をかけてきました。 「えっ、なに?」 「声も顔も後ろ姿も、Sさんにそっくりな人がもう一人居たんだけれど……」 「なに言うの? 私しかいないじゃない」 (あらー、しばらく私が留守にしている間におかしくなったのかしら) 姑はそれからも、本当に不思議そうな顔をして、くり返し言うのです。 ある日、また「どこ行ったのかしら?」と言われたときに、ハッとしました。 (もしかして、もう一人というのは研修に行く前の私? おばあちゃんは直感的に、私の心のなかの変化を見ているのかもしれない……) 思い切って姑に訊ねてみました。 「おばあちゃんは、もう一人のことをどう思ってたの?」 「そうねぇ。なんか……意地悪そうな人だったよ」 たいへん言いにくそうに答えました。 (ああー、やっぱりそう思ってたんだ) 「おばあちゃん、その意地悪な人はもう居ないのよ。これから一生、面倒を見させてもらうから安心してね」 「うん、分かった。ありがとう」 それから数日後、姑はいつになく改まったようすで私にいいました。 「これから、この家のことは全部あなたに任せるから、よろしくね」 二人っきりの時間 姑はあとを託して安心したのか、急速に体が衰弱してゆきました。目に見えて足腰が弱り、とうとう寝たきりになってしまいました。そのとき姑は83歳。 (おばあちゃん……ずっとおばあちゃんの愛に気づけなくてごめんね。いまこそお返しさせていただくときだわ) 医師と相談して、区のヘルパーさんを頼み、在宅介護することにしました。居室だった6畳にベッドを置いて、食事、お風呂、オムツ替え──私は心を込めてお世話しました。 「おばあちゃん、おはよう。お食事よ」 姑はご飯を食べ終わると、私に向かって、「ありがとう」と手を合わせてくれます。オムツを替えても、「ありがとう」。いつも感謝してくれるのです。 (私のほうこそ、おばあちゃんのお世話をさせていただくと温かくなる。こんな風になれるなんてありがたいわ) 寝たきりの間、姑は大川先生の御法話「天国と地獄」が好きらしく、しょっちゅう聴いていました。あの世の世界のようすが語られている御法話です。 時には認知(痴呆)症らしき症状が現れるときがあっても、不満や苦痛を訴えたりすることはまったくなく、楽しそうに過ごしてくれました。 なかなか十分に恩返しをしきれない思いがありましたが、「おばあちゃんは幸せねぇ」というヘルパーさんの言葉が救いでした。 寝たきりなって3カ月が過ぎたころ──。 「あそこに叔父さんが立ってるよ」 先に亡くなった親戚のことを姑が話し出したとき、「もう長くないかもしれない」と覚悟を決めました。 やがて3日間コンコンと眠り続け、静かに旅立っていった姑。まるで眠っているかのような穏やかな顔でした。 おばあちゃんとの思い出 あれから数年。食事のしたくでも、野菜を切っているときなど、「あれ? これっておばあちゃん流だな」と気づくことがあります。 私も、いつの間にか姑に似てきたようです。おばあちゃん直伝の「にんじんご飯」は、主人はもちろんのこと、子供たちも大好物です。 私は幸福の科学で本当に救われました。もし葛藤を抱えたままで姑を見送っていたら、今ごろは後悔の念いでいっぱいだったことでしょう。 「愛は受けるより与えるほうが尊い」と教えていただいていますが、姑との時間を通し、そのことを実感できました。 いまはただ私と一緒に人生を送ってくださった姑に感謝しています。 この記事は、隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第119号より転載し、編集を加えたものです。 嫁姑問題,研修・行事,隔月「ザ・伝道」 関連リンク 『常勝思考』 『「幸福になれない」症候群』 幸福の科学 精舎 同じテーマの記事 嫁姑の葛藤を乗り越えられた――支部長からのアドバイス 2015.06.13 Hさん(30代・女性) この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第137号より転載し、編集を加えたものです。 夫の実家で同居することに 私は18歳の時に上京して、25歳の時に結婚しました。主人とは、幸福の科学の支部で知り合いました。 妊娠5カ月頃… 続きを読む 同じテーマの記事 まず自分が変わることで幸福になれる 2014.01.15 Yさん(40代・女性) この記事は、毎月発刊の機関誌月刊「幸福の科学」第223号より転載し、編集を加えたものです。 今から数年前、私は嫁姑関係に悩んでいました。義父母とは同居ではありませんでしたが、近くに住んでいたので、接する機会がよくあったの… 続きを読む 同じテーマの記事 10年間、認知症の義母の介護を続けて 2013.11.07 Mさん(60代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第145号より転載し、編集を加えたものです。 なんで私がこんな目に――? この10年間、認知症の義母の介護をしながらも、私の頭からこの思いが完全に消え去ることはありませんでした。しかし… 続きを読む 同じテーマの記事 姑との確執、夫婦の不和……心が通い合うまで 2013.10.03 Mさん(40代・女性) この記事は、隔月発刊の「ザ・伝道」第117号より転載し、編集を加えたものです。 休日の午後、家族4人がそろうひととき――。 3歳になる娘のはしゃぐ姿に、日ごろ多忙な主人も目を細めています。 高校生の長男も嬉しそう。 あり… 続きを読む